夫婦ともども被爆二世である。
 母は、女学生の頃、救護活動にかり出され、投下から数日して市内に入ったという。
 夫の父は、爆心地から半径100メートル以内という場所で、直撃された。義父は、酒造組合に勤めていて、やけども傷も負わなかったが、もう駄目だろうと、この世の名残とありったけの酒を飲んだそうだ。その後、何日にもわたって下痢が続き、後日、あれが幸いしたのかもしれないと振り返りながら(結婚した当時にはすでに亡くなっていたので義母に聞いた話しだが)・・・、70歳半ばまで元気に過ごした。酒の効用は定かではない。しかし、距離的には生き残ったことが奇跡だと言われていた。
 義母はまだ結婚前で、父親に言われて、朝風呂をたてていたという。昔のことで、外で火を焚いていた。気づいたときは吹き飛ばされて、部屋の中で倒れていたという。義母もヤケドはしなかったが、20代で歯をすべて失った。

 私は子供の頃に虚弱な質で、すぐに熱を出しては寝込むような有様だった。いつも青い顔をしていたと言う。母は、自分が被爆したせいではないかと、神経質に医者に連れまわった。

 母も、義母も原爆の様子を滅多に語ることはなかった。
 8月6日がきて、黙祷を捧げながらも、当時のことに触れようとはしなかった。

 十数年前、一緒に仕事をした人がいる。どこかを定年退職した後で、シルバーセンター
を通して経理の仕事で入ってきた。まじめで、温厚な人。まさに、経理畑一筋といった具合。といって、堅物というわけでもなく、なかなかユーモアを解する人でもあった。
 どういう来歴がよく知らなかったが、いつか、実家はかつて木材業を営んでいたと聞かされた。何人も人を使って、ずいぶん盛んであったらしい。
 「どちらで?」「●●町で」。
 
 爆心地に非常に近い。「原爆は?」
 それは過酷な質問だった。疎開していた彼は無事だったが、家族はすべて犠牲になったと・・・。日頃の姿からうかがい知れない話しに、殴られたような衝撃だった。

 「あんたはいいねえ。原爆手帳を持っているから、医療費がタダじゃろう。うちらは、医者に行くのも高くつく」。
 母にそう言った人がいる。母は黙って笑っていた。

 過去帳には、母、義父、義母の名が載っている。
 燃えるような夾竹桃を見ると、心がシンとする。