三月の声をきいたばかりで、春は浅く、夜道は冷え冷えとしていた。
 その冬は、例年にない寒さで、三月に入っても桜前線どころか、各地で降り積もる雪による、相次ぐ事故やけがのニュースが報じられていた。

 美奈子は、母がひとり住むアパートへの道を辿っていた。着古したダウンコートは悲しいくらい薄っぺらで、寒さは容赦なくからだを突きさしてくる。それでも、衿をぴったりと合わせ、自分を抱きかかえるようにして。
 駅からタクシーに乗れば、10分で着くところ、歩く事にした。考えた結果の行動ではない。できるだけ、時間を引き延ばそうという意識が働いたのだろう。いや、タクシーという手段も思い浮かばなかったのだ。
 まるで大きな石でもぶらさがっているように足どりは重かった。
 途中で、アパートのある方角に背を向けて、商店街をぶらついた。見慣れたはずの光景なのに、なにもかもが異国のようだ。人の動きはスローモーションにように緩慢で、実態のある場所かと思わず疑いたくなる。しかし、こんなことをしている場合か? 投げかけた自問に、自分もまた壊れつつあるのではないかという恐れがこみ上げてきた。
 気がつけば、もう日はとっぷりと暮れ、駅に降り立ってから二時間近くが過ぎている。
 
 建っているのが奇跡のように古びたアパート。住人がどのような暮らし向きかはおのずと知れる。時空をこえて、こつ然と姿をあらわしたような不気味さ。異様な風景の中でも、2階建ての隅の一室はそれとは別に異常である。
 常軌を逸した母が、窓を段ボールとガムテープで塞いだため、日が全く当たらない。それも夜の闇がかき消してはいるが。昼間には外目にも分かり、とてもまともな人の住むところとは到底思えない。そもそも、まともではないのだが。
 風呂場の土台にはシロアリがわき、今にも崩れそうだが、母は全く関知しない。
 その一室でなにが起きているか。すでに美奈子は知っている。美奈子は発見するだけなのだ。いまはそのための部屋なのだ。

 中学にあがる前、母は美奈子を連れて家を出て、母の父親(つまりは美奈子の祖父である)が家主というこのアパートに住み始めた。
 本来なら、実家に身を寄せればいいものを、祖父母は、あからさまにいやな顔をした。母の嫁ぎ先が裕福なことがまるで自分たちのステイタスでもあるかのように、「康祐さんに悪いから」、と、暴力三昧の挙げ句、母と美奈子がいのちからがら逃げ出した男をかばうように言った。母が受けた仕打ちを知っていたに違いなのに。
 そして、家を出た事を内緒に、ひっそりと暮らすという条件でアパートの一室を提供したのだ。こんな場所に我が娘を住まわせる神経は全く理解不能だ。それでも賃料が不要なというただ一点で、母と娘は、ここに居を定めざるをえなかった。

 美奈子にとっては父である男。父? 物心ついて、そう思ったことは一度とてない。人の姿をした悪魔。母は、子どものために我慢に我慢を重ね、少しずつだが確実に、崩壊していった。
 家を出ようと言ったのは美奈子である。母は兄も連れていきたいと泣いて懇願した。しかし兄は、跡取りだからと、どうしても父が放さなかった。ある時分までは必死に抵抗していた兄自身も、その頃にはもうなにひとつ口ごたえをするでもなく、殴られれば殴られるまま、罵倒されれば罵倒されるまま。母や妹を守る気概もとうになくなっていた。
 兄は中高一貫の名の知れた進学校に入りながら、中学を終えた時点で事切れたように、高校には一日も行かずしまい。それは父や父の両親にとって「吉富家の恥」ではあったが、言葉さえ失った兄に対して、悪魔の父もお手上げとなった。それでも「跡取り」として、父・・・むしろ父の両親が執着したのだ。愛情からではないことは明白だが、兄がいいなりになる以上、母には為す術もなかった。

 なにしろ、吉富家は地方都市でも有数の名家。お屋敷と呼ばれる日本家屋は、いかにも金のかかったつくりであり、門から玄関までの距離や庭木の太さも来るものを威圧する。なひとつ不自由のなさそうなこの屋敷で修羅場が演じられていることを誰が想像しただろう。
 母は家を出るまで、祖父母のために毎日お重にきっちり料理をつくって、離れに届けていた。その完璧さには狂気が潜んでいたと思う。
 気品にあふれ、女優も顔負けの美しい母。高価な洋服を身に付けどこから見ても、羨ましい限りの奥様で、近寄ることさえはばかられる。参観日、母が現れると、他の母親たちからため息がもれる。美奈子といえば、「忘れ物の女王」と呼ばれ、それはひとえに家庭環境の悪さからきているのに、誰も気づいてはくれない。成績は群を抜いてよかった。それがかえって災いしたように、「お嬢様は、やっぱりのんびり生きているのね」、そんなことを面と向かって言われもした。
 自分の境遇を素直に訴えられないのは、自分のそばから、誰もいなくなるのではないかという恐怖心が、美奈子の心を占拠していたからだ。

 兄の不登校はひた隠しにされたが、さすがに、母と美奈子が家を出た事は知れ渡った。なんといってとりつくろったかは、美奈子は知らない。
 父は格別吝嗇というわけでもないのに、美奈子の母に送金する生活費は微々たるものだった。反面で、母の両親や母の兄弟に父は金をばらまいた。いってみれば口止め料ということだろう。それがまた母を疎外することになる。どこまでも、追いつめてやる、そんなことに過ぎないだろう。それにしても手口は見事だ。拍手喝采。

 美奈子が母を残してアパートを出たのは、高校を卒業したときだ。母の精神はまだ完全には破綻しておらず、「なんとでもするから、行きたい大学に行きなさい」と娘を送り出した。
 一度も働いたことのない母だが、手先の器用さで縫い物、繕い物の内職をしていた。そんな家計の内情が、いかに18の小娘にも見て取れ、美奈子は働きながら夜学を卒業した。
 それなりに疲れる毎日だったが、いま思えば、あの4年が一番気持ちの楽なときだったような気がする。同じ学部の学生と半年同棲も経験したが、求婚された途端に、別れた。
 嫌いではなかった。早くに父親を亡くし、年の離れた兄夫婦が母と暮らしていると聞いた。兄のほうは弟のために大学進学を諦めたが、それが申し訳なくて、仕送りを断っているとも。
 実直で、寂しがりやで。細かい心遣いやさりげない仕草が、平安な家庭に育ったことを感じさせた。それに甘えきれない自分の限界が見えたとでも言えばいいのか。
 思うほど別れが辛くなかったことも、美奈子自身の心の闇を突きつけられたようで、彼のために別れてよかったのだと納得したほどだ。
 卒業して、そのままその地で就職した。自分でも驚くほど事務能力が高く、同僚の数倍のスピードで仕事がこなせる。時代もよかった。給料もボーナスも上がっていき、母親に援助してもまだ余裕があった。

 一方で、帰省するたび、母の異常さは増していた。それとなく入院を勧めると、「二度と来るな」と怒鳴られた。
一旦怒りが爆発すると、もともとが美しい顔のせいで、まさに鬼の形相。やせて静脈が浮いた手を震わせて、手当り次第にものを投げる。そうして追い返しておきながら、夜中だろうと明け方だろうと気分次第でかまわず電話をかけてくる。
 「美奈子はかわいい子だわ」から始まり、延々と子どもの頃の話が始まる。明らかに異常だが、般若のような母と違って、語り口は柔らかい。ついほだされてしまう。じゃあ、来週帰るね・・・。そうして、帰る度に、母の変わりゆく姿に唖然とさせられる。強制入院という手だてもあるが、そうなると母は、二度と戻ってくることはないだろう。あまりに忍びない。
 美奈子とてバカではないから、叔母や叔父に相談し、イヤイヤながら兄にも事情を打ちあけた。ところが、世の中は、すさまじい。どこも父のカネがからんでいる。母の実家が近隣というのも不運だった。
 手広く事業を行っている吉富家は、美奈子と母をなかったものとして捨てさせるだけの力を持っていた。

 昨日。
 「やってくる、やってくる」と母の怯えた声を携帯の留守電で聞いたのは昼休憩のときだ。すぐに電話をすると、拍子抜けするくらい落ち着いていた。
 「明日は会社を休んで、帰るから。待っていてね」。それを母は、「なんで?」と聞き返した。「ちょっと心配だから」と言うと「私は、もう大丈夫。美奈子はなんの心配もしなくていいのよ」。
 この数年、聞いた事のなかったような母の優しい声に、美奈子は胸騒ぎを覚えた。
 
 暗がりの中にアパートの灯りがポッと浮かびあがっている。どこからか、テレビの音がもれてもいる。母の部屋は暗い。灯りなどあるはずはない。それはわかっている。そしてそこになにが待っているかも。
 
 駅に降り立った時、なにを感じ取ったのか? そう問われても答えようはない。
 なぜ昨日、すぐに母の元に駆けつけなかったのか。それにも答えようはない。
 昨日、帰っていたら、違う結末だったのではないか? そう責められれば、そうかもしれないとしか言いようがない。
 でも、そうだろうか? 本当にそうだろうか? それに、結末ってなんだろう?

 真っ暗な部屋を開けねばならない。
 美奈子が見つけねばならない。それは見つけられるためにそこに留まっている。
 見つけたら、兄に連絡するだろう。おのずと父に知れ、セレモニーは彼を中心に行われ、父は「客」に愛想をふりまくだろう。ときに涙のひとつも見せて美奈子の肩を抱くだろう。兄は、無力にうなだれたままだろうか? 父というあの男を殴り倒す光景は期待できないだろうか。

 美奈子は、駅前で、一本の包丁を買った。
 それを抜き身にして、バッグに隠し持っている。

 部屋の鍵をあけねばならない。
 美奈子が選択を迫られるときが息を殺して待っている。