「お嬢さんのことで・・・」
見知らぬ声がそう告げた。
また、噂を聞きつけて宗教の勧誘にでも来たのだろうとインターフォンを覗くと、そこに映ったのは、うなだれるように立っている女だった。お腹のふくらみが、その姿とどこかちぐはぐである。静子は、異様な様子に戸惑いながら返事をかえした。
「どういうお話でしょう?」
「主人とお嬢さんのことで・・・」
ようやく絞り出した、というように、間を置いて、か細い声が返ってきた。
先の日曜日、祥子の49日を済ませたばかりだ。
29歳と15日。そろそろ結婚でも考えたら?などと、親としては、20代最後の誕生日にさぐりをいれるようなことを言ったが、まさかそんなことがプレッシャーになって逝ったのではないか・・・と、なににつけても我が身を悔やんでいた。夫は一人娘を失って、まるで生きる意志というものがなくなったかのようだ。身内だけの法要もようようの体で、静子は、親戚の手前、夫の分まで気を張って過ごさねばならなかった。仕事には復帰しているが、いつまでもつだろうか。
静子自身も、緊張の毎日にからだはもういうことをきかない。夫はなぜ自分を責めないのだろう?母親のくせに、なんで死なせた・・・のど元まで出かかっているに違いない。けれども、それを言うと自分も含めてなにもかもかダメになると承知しているからだ。そう最後にかろうじて残っている理性が「母親のくせに」、の一言を押さえ込んでいる。いわれなくても、自分の内側で絶えず声が聞こえてくるというのに。母親のくせに、母親のくせに・・・。
「ごめんなさい。ありがとう」。
手帳を破って書かれた一行。
そんなことで納得できる話ではない。なぜ?なぜ?なぜ逝った? 何度も何度も口にした。口を閉ざしても問いつめた。なぜ? なんの不自由があった?どこに不幸のかけらがあった? どれだけ愛して育ててきたと思うのか?
夏の名残をとどめる暑さにもまるで頓着ないように、チェックのマタニティードレスの裾が揺れていた。
「主人とお嬢さん」・・・それだけで事情は飲み込めた気がした。携帯電話が見つからなかったのもそういうことなのか。ひとつ腑に落ちた。
しかし、すべてが知りたい。聞きたくない事も、なんなりと聞かせてほしい。聞かねば気がおさまらない。
静子は午後の見知らぬ訪問者を招き入れた。
「靴が・・・そろえられてなかったんです。靴が。脱ぎ散らかされていたんです・・・」。
静子はとっさにビルの屋上にきちんとそろえてあった黒いパンプスを思い出して、体が震えてきた。ああいうことを人は「覚悟の証」と呼ぶのだろうか・・・後になってぼんやりとそんなことを思ったりした。
しかし、この女は何を言おうとしているのだろう?
黙すことで相手に話を促した。
娘も不憫だが、もうじき子どもを産もうかという女が、こんなに思い詰めて話している。それも、娘に対して憤りもないように。
哀れであった。女の哀れさが、娘の哀れさを増しさえすらした。
女は5年前に職場結婚をして、家庭に入った。祥子は、2年ほど後輩で、結婚まで一緒に仕事をしたのだという。女の夫は、女の直接の上司であり、一回りも年は離れているが、中学生の頃父親を亡くした彼女には、夫であると同時に、父の面影を宿す男でもあったらしい。しばらくは二人で暮らしても、子どもができたら、一人身の母と同居したいという願いを快諾してくれたと言う。それで母親に頭金を出してもらい、家も建てた。
夫は仕事に懸命で、帰りは毎日遅かったが、独身時代から、それは部下としてよく知っていたから、なんの不満も疑念もなかったと。
そろそろ、子どもが欲しいという彼女の言葉に、夫も「そうだなあ。オレも子どもの運動会で、いいところを見せられるもこの辺が限界だしなあ」と返事をしたそうだ。そして妊娠。
「オレはしっかり働くから、お前はしっかり食べるんだぞ」と労ったのだと言う。
「あの日。つわりがひどい私に、「しばらくおかあさんのところで静養してきては」と・・・夫がそう言って」。
「子どもが生まれると母とは同居するから、同居したらあの家ともさよならするんだし、無性に寂しくなって、しばらく実家に帰ることにしました」。
「それで、保存のおかずをつくっておこうと夢中になって、すっかり出かけるのが遅くなって・・・」。
途切れ途切れに、女は話した。
一体どこで祥子とつながるのか?
ここまで来たのは相当な覚悟だろうが、なかなか先が見えてこない。それでも静子は黙っていた。
あれ以来、なにも見えない。祥子が逝った。それ以外に見えてくるものなどない。どんなに不毛な話であろうと、どんなに辛かろうと、最後まで聞かねばならない。いや、話してもらわねばならない。
「タクシーで・・・」言いよどんだ。
疲れ果てたような様子に、静子が麦茶を差し出すと、女はホッとしたように口をつけた。
その後の話はこうだ。タクシーで駅まで行ったはいいが、ガスを切ったかどうかがどうにも気になって、家に引き返したという。すると、家に灯りが点っていた。珍しく早い帰宅に、夫を驚かすつもりでそっと家に入ると、玄関に女物の靴があった。
「それが、その靴が・・・そろってなかったんです。そろえられてなかったんです。まるで自分の家のように脱ぎ散らしてあったんです」
夫と祥子の特別な仲を、靴が教えてくれたという。
おそるおそるリビングに入っていくと、夫と祥子はワインを傾けていた。祥子はリビングのドアに背を向けていて、彼女の夫が妻に気づき、さっと表情を変えたあと、祥子が振り向いたのだそうだ。
「お嬢さん、とてもびっくりされてました。私にというより、私のお腹を見て。叫んだような気もします。私も動転していたのでよく覚えていません・・・それでウチを飛び出して・・・」
あのパンプスは一度は幸福の予兆にカランと脱ぎ捨てられ、次には絶望できっちりそろえられていたのか。
静子は思わず両耳をふさいだ。声を押し殺して泣いた。
「すみません、すみません。許してください」
女も肩を震わせて、畳に頭をすりつけながら、嗚咽を始めた。
女には罪はない。
そうとは分かっても、なぜこんな知らせをわざわざしにきたのか? 聞きたかったはずなのに、そのことを憎んだ。聞いたばかりに憎んだのだ。知らない方がよかった、そんなことではない。いずれは分かったことでもあろう。しかし、こんなかたちで告げられねばならないことか。それは女が必死に夫を守ろうとする意志ではないか。これから生まれる子どもとの3人の家庭を、守りたいがための、行為だ。女はきっと、この瞬間に自分の未来を賭けているのだ。
女に詫びられる筋合いはない。祥子があまりにもかわいそうではないか。
「祥子を許してやってください」
静子も深々と頭を下げた。祥子が女にもたらせた苦しみは、多分、祥子の苦しみそのままだろう。それでも決定的に違うのは、いまここに生きているか否か。静子の詫びは、女に対して出来る、唯一の仕返しとも言えた。
男のことは、一生許さないだろう。それが感情だけで終わるのか、なにかしらの行動となるのか、今は静子にも予測できない。憎しみを支えと出来るかどうかも分からない。いずれにしても、もう女の関知することではない。女はすべきと思うことをした。女の決着は女に委ねられている。
女を玄関まで送り出すと、片隅にはばかるように、几帳面にそろえられた靴が静子の目にとまった。悪意はない。自然の所作であろう。
女が出て行った途端、静子は崩れ落ちるように座り込むと、号泣が家中に響き渡った。
見知らぬ声がそう告げた。
また、噂を聞きつけて宗教の勧誘にでも来たのだろうとインターフォンを覗くと、そこに映ったのは、うなだれるように立っている女だった。お腹のふくらみが、その姿とどこかちぐはぐである。静子は、異様な様子に戸惑いながら返事をかえした。
「どういうお話でしょう?」
「主人とお嬢さんのことで・・・」
ようやく絞り出した、というように、間を置いて、か細い声が返ってきた。
先の日曜日、祥子の49日を済ませたばかりだ。
29歳と15日。そろそろ結婚でも考えたら?などと、親としては、20代最後の誕生日にさぐりをいれるようなことを言ったが、まさかそんなことがプレッシャーになって逝ったのではないか・・・と、なににつけても我が身を悔やんでいた。夫は一人娘を失って、まるで生きる意志というものがなくなったかのようだ。身内だけの法要もようようの体で、静子は、親戚の手前、夫の分まで気を張って過ごさねばならなかった。仕事には復帰しているが、いつまでもつだろうか。
静子自身も、緊張の毎日にからだはもういうことをきかない。夫はなぜ自分を責めないのだろう?母親のくせに、なんで死なせた・・・のど元まで出かかっているに違いない。けれども、それを言うと自分も含めてなにもかもかダメになると承知しているからだ。そう最後にかろうじて残っている理性が「母親のくせに」、の一言を押さえ込んでいる。いわれなくても、自分の内側で絶えず声が聞こえてくるというのに。母親のくせに、母親のくせに・・・。
「ごめんなさい。ありがとう」。
手帳を破って書かれた一行。
そんなことで納得できる話ではない。なぜ?なぜ?なぜ逝った? 何度も何度も口にした。口を閉ざしても問いつめた。なぜ? なんの不自由があった?どこに不幸のかけらがあった? どれだけ愛して育ててきたと思うのか?
夏の名残をとどめる暑さにもまるで頓着ないように、チェックのマタニティードレスの裾が揺れていた。
「主人とお嬢さん」・・・それだけで事情は飲み込めた気がした。携帯電話が見つからなかったのもそういうことなのか。ひとつ腑に落ちた。
しかし、すべてが知りたい。聞きたくない事も、なんなりと聞かせてほしい。聞かねば気がおさまらない。
静子は午後の見知らぬ訪問者を招き入れた。
「靴が・・・そろえられてなかったんです。靴が。脱ぎ散らかされていたんです・・・」。
静子はとっさにビルの屋上にきちんとそろえてあった黒いパンプスを思い出して、体が震えてきた。ああいうことを人は「覚悟の証」と呼ぶのだろうか・・・後になってぼんやりとそんなことを思ったりした。
しかし、この女は何を言おうとしているのだろう?
黙すことで相手に話を促した。
娘も不憫だが、もうじき子どもを産もうかという女が、こんなに思い詰めて話している。それも、娘に対して憤りもないように。
哀れであった。女の哀れさが、娘の哀れさを増しさえすらした。
女は5年前に職場結婚をして、家庭に入った。祥子は、2年ほど後輩で、結婚まで一緒に仕事をしたのだという。女の夫は、女の直接の上司であり、一回りも年は離れているが、中学生の頃父親を亡くした彼女には、夫であると同時に、父の面影を宿す男でもあったらしい。しばらくは二人で暮らしても、子どもができたら、一人身の母と同居したいという願いを快諾してくれたと言う。それで母親に頭金を出してもらい、家も建てた。
夫は仕事に懸命で、帰りは毎日遅かったが、独身時代から、それは部下としてよく知っていたから、なんの不満も疑念もなかったと。
そろそろ、子どもが欲しいという彼女の言葉に、夫も「そうだなあ。オレも子どもの運動会で、いいところを見せられるもこの辺が限界だしなあ」と返事をしたそうだ。そして妊娠。
「オレはしっかり働くから、お前はしっかり食べるんだぞ」と労ったのだと言う。
「あの日。つわりがひどい私に、「しばらくおかあさんのところで静養してきては」と・・・夫がそう言って」。
「子どもが生まれると母とは同居するから、同居したらあの家ともさよならするんだし、無性に寂しくなって、しばらく実家に帰ることにしました」。
「それで、保存のおかずをつくっておこうと夢中になって、すっかり出かけるのが遅くなって・・・」。
途切れ途切れに、女は話した。
一体どこで祥子とつながるのか?
ここまで来たのは相当な覚悟だろうが、なかなか先が見えてこない。それでも静子は黙っていた。
あれ以来、なにも見えない。祥子が逝った。それ以外に見えてくるものなどない。どんなに不毛な話であろうと、どんなに辛かろうと、最後まで聞かねばならない。いや、話してもらわねばならない。
「タクシーで・・・」言いよどんだ。
疲れ果てたような様子に、静子が麦茶を差し出すと、女はホッとしたように口をつけた。
その後の話はこうだ。タクシーで駅まで行ったはいいが、ガスを切ったかどうかがどうにも気になって、家に引き返したという。すると、家に灯りが点っていた。珍しく早い帰宅に、夫を驚かすつもりでそっと家に入ると、玄関に女物の靴があった。
「それが、その靴が・・・そろってなかったんです。そろえられてなかったんです。まるで自分の家のように脱ぎ散らしてあったんです」
夫と祥子の特別な仲を、靴が教えてくれたという。
おそるおそるリビングに入っていくと、夫と祥子はワインを傾けていた。祥子はリビングのドアに背を向けていて、彼女の夫が妻に気づき、さっと表情を変えたあと、祥子が振り向いたのだそうだ。
「お嬢さん、とてもびっくりされてました。私にというより、私のお腹を見て。叫んだような気もします。私も動転していたのでよく覚えていません・・・それでウチを飛び出して・・・」
あのパンプスは一度は幸福の予兆にカランと脱ぎ捨てられ、次には絶望できっちりそろえられていたのか。
静子は思わず両耳をふさいだ。声を押し殺して泣いた。
「すみません、すみません。許してください」
女も肩を震わせて、畳に頭をすりつけながら、嗚咽を始めた。
女には罪はない。
そうとは分かっても、なぜこんな知らせをわざわざしにきたのか? 聞きたかったはずなのに、そのことを憎んだ。聞いたばかりに憎んだのだ。知らない方がよかった、そんなことではない。いずれは分かったことでもあろう。しかし、こんなかたちで告げられねばならないことか。それは女が必死に夫を守ろうとする意志ではないか。これから生まれる子どもとの3人の家庭を、守りたいがための、行為だ。女はきっと、この瞬間に自分の未来を賭けているのだ。
女に詫びられる筋合いはない。祥子があまりにもかわいそうではないか。
「祥子を許してやってください」
静子も深々と頭を下げた。祥子が女にもたらせた苦しみは、多分、祥子の苦しみそのままだろう。それでも決定的に違うのは、いまここに生きているか否か。静子の詫びは、女に対して出来る、唯一の仕返しとも言えた。
男のことは、一生許さないだろう。それが感情だけで終わるのか、なにかしらの行動となるのか、今は静子にも予測できない。憎しみを支えと出来るかどうかも分からない。いずれにしても、もう女の関知することではない。女はすべきと思うことをした。女の決着は女に委ねられている。
女を玄関まで送り出すと、片隅にはばかるように、几帳面にそろえられた靴が静子の目にとまった。悪意はない。自然の所作であろう。
女が出て行った途端、静子は崩れ落ちるように座り込むと、号泣が家中に響き渡った。