「老い」を嘆かずに、きれいに、しっかり生きていこうという本はいくつもあるけど、老いて生きる張りをなくしたなあと書き連ね。とはいえ博識だから、合間合間にきらりがあって、ホント、性根の入った年寄りってこうなんかも・・・って思ってしまう。
堀 秀彦「石の座席」(朝日文庫)
昭和62年発行の、もう古い本だ。先日の古書店で。著者は、哲学者。ラッセルの幸福論を訳した人だ。本書は、著者82歳のとき。
なにもかもやる気が起きない模様。それはそれでいいけど。
「アメリカ人も、そして近頃は日本人も、一番いやがるのは、退屈ということらしい。なんにもすることがない。したいと思うこともない。さりとて、精神がのらのらと怠けているわけにもいかない―――これほど、現代人にとって苦痛なことはないようだ。
保険会社は私を完全にみすてた。私もこの世をみすてる。八十をこえた。いいじゃないか、なにひとつ世間さまに役立つことをしなくたって。
昔、ある人がなんにもしないでのらくらしている知人を非難したところ、「各人はその行為については責めを負わねばならないが、なにもしないことについてはその必要はない」と答えた」。
ただし、本を読む限りでは、著者がなにごともやる気が出ないということで誰かに非難されている気配はない。むしろ本人が、やる気、出ないんだよね~ハリがないしさ~、いけないかもね~・・・悟りも覚悟もないときてるし~と言っているんだ。
へえ、老齢ってこういうことなの・・・。
それから・・・文庫化にあたってのあとがき。
「この4月で、とうとう85歳になった。その間、百冊以上のつまらない本を出版した。ずいぶん沢山出したものだ。それらの本の中でなにをかいたか、一口でいえば「答え」のない「問い」ばかり連ねてきた。「問い」ばかりかき連ねてきたのは、哲学と言う不毛な学問?にとりつかれたせいだ。やたらに難しげな言葉の多い哲学などというものに会って、一体なにをつかんだか。
私たちは愚かにも、「問い」を出すことが「答え」を出すことと同じように価値があることだと思いこんでいる。だが、「問い」は「問い」であって、なにも与えてくれない」。
厭世的でもない。現実的というべきか。
私・・・嫌いじゃないわ、この自己否定の仕方。笑えるもん。
堀 秀彦「石の座席」(朝日文庫)
昭和62年発行の、もう古い本だ。先日の古書店で。著者は、哲学者。ラッセルの幸福論を訳した人だ。本書は、著者82歳のとき。
なにもかもやる気が起きない模様。それはそれでいいけど。
「アメリカ人も、そして近頃は日本人も、一番いやがるのは、退屈ということらしい。なんにもすることがない。したいと思うこともない。さりとて、精神がのらのらと怠けているわけにもいかない―――これほど、現代人にとって苦痛なことはないようだ。
保険会社は私を完全にみすてた。私もこの世をみすてる。八十をこえた。いいじゃないか、なにひとつ世間さまに役立つことをしなくたって。
昔、ある人がなんにもしないでのらくらしている知人を非難したところ、「各人はその行為については責めを負わねばならないが、なにもしないことについてはその必要はない」と答えた」。
ただし、本を読む限りでは、著者がなにごともやる気が出ないということで誰かに非難されている気配はない。むしろ本人が、やる気、出ないんだよね~ハリがないしさ~、いけないかもね~・・・悟りも覚悟もないときてるし~と言っているんだ。
へえ、老齢ってこういうことなの・・・。
それから・・・文庫化にあたってのあとがき。
「この4月で、とうとう85歳になった。その間、百冊以上のつまらない本を出版した。ずいぶん沢山出したものだ。それらの本の中でなにをかいたか、一口でいえば「答え」のない「問い」ばかり連ねてきた。「問い」ばかりかき連ねてきたのは、哲学と言う不毛な学問?にとりつかれたせいだ。やたらに難しげな言葉の多い哲学などというものに会って、一体なにをつかんだか。
私たちは愚かにも、「問い」を出すことが「答え」を出すことと同じように価値があることだと思いこんでいる。だが、「問い」は「問い」であって、なにも与えてくれない」。
厭世的でもない。現実的というべきか。
私・・・嫌いじゃないわ、この自己否定の仕方。笑えるもん。