もし
通りすがりのひとが 書き込めるような壁が まちなかにあったとして
『ぜんたいをみてから』ということで
たくさんのひとが 書くことをたのしむことができる場になり
書かれたものは 詩であって絵でもあって
そういうのがもしもあったら
書き始めるまえに すこしかなしくなるひとが いるかもしれない
ぜんたい というものに 慣れていないとき
じぶんが ちいさくおもえたり
じぶんのことばをあらわすことがこわかったり
こわさにとらわれ ゆうきをだそうと
ばらんすをみるのをわすれたり
きずつきやすくなることの 価値を
わたしたちは しっているのだろうか
ぜんたい や つながり に
くるおしく あこがれながら
やわらかい こころの いちばんやわらかい先端を
筆のように ことばを あらわしはじめることを
どんなに
ひとりぼっちに してきてしまったのだろう
たったひとりじゃなくなりたくて
みんなのなかであまやかされたくて
だけとゆるされないとおもいこんで
やわらかさを かんじないまま ひとりで いられた日々は
おわり やがて なかま が めざめる
じつは
おおきなばしょに ひとりでかきはじめることは
いっしょにことばをつらねることに きまっているひとたちに 合図を送り
もともとのやくそくどおりにしあげていくプロセスで
ほんとうは
さいしょから かんせいまで
みんな いっしょ なのかもしれない
じっさいに顔を合わせないひとがいても それでもいっしょであることに かわりはないし
その だれかのしごとは
はっきりいつでも
その おおきなばしょに ちゃんとあるんだ
(…それでも 一緒に書きたいんだ)