もし


通りすがりのひとが 書き込めるような壁が まちなかにあったとして


『ぜんたいをみてから』ということで


たくさんのひとが 書くことをたのしむことができる場になり


書かれたものは 詩であって絵でもあって


そういうのがもしもあったら


書き始めるまえに すこしかなしくなるひとが いるかもしれない


ぜんたい というものに 慣れていないとき
じぶんが ちいさくおもえたり


じぶんのことばをあらわすことがこわかったり


こわさにとらわれ ゆうきをだそうと
ばらんすをみるのをわすれたり


きずつきやすくなることの 価値を


わたしたちは しっているのだろうか


ぜんたい や つながり に
くるおしく あこがれながら


やわらかい こころの いちばんやわらかい先端を
筆のように ことばを あらわしはじめることを


どんなに


ひとりぼっちに してきてしまったのだろう


たったひとりじゃなくなりたくて
みんなのなかであまやかされたくて
だけとゆるされないとおもいこんで


やわらかさを かんじないまま ひとりで いられた日々は


おわり やがて なかま が めざめる


じつは


おおきなばしょに ひとりでかきはじめることは


いっしょにことばをつらねることに きまっているひとたちに 合図を送り


もともとのやくそくどおりにしあげていくプロセスで


ほんとうは
さいしょから かんせいまで


みんな いっしょ なのかもしれない


じっさいに顔を合わせないひとがいても それでもいっしょであることに かわりはないし


その だれかのしごとは


はっきりいつでも


その おおきなばしょに ちゃんとあるんだ









(…それでも 一緒に書きたいんだ)


 



じぶんを すこしは だいじに


おもえるようになったら


いままで へいきだと おもっていたことが


衝撃的に


ずしっと ひびいてね


ああ


これは きつい


にたようなおもいを したことがあるひとは きっといるだろう


これは


きついね


りくつじゃないんだね


わかってよかったよ




もう にどと あんな ことは いわない


なにもしらないのに
そうじゃないのに


…わかって よかった


じぶんは じぶんを


だいじに おもっていたんだなって


ずっと
ゆずれないものを もっていたんだなって


そいつは俺のだ
だけど 手をはなしたのも俺


だから


しかたがねえんだ


ここまではな


いまから ここからは


そうは させない。