「母の死を乗り越えて社会人に」
私がもうすぐ24歳になる頃、
母の具合が悪くなり、
入退院を繰り返すようになりました。
母は不死身だったと思っていたけれども
母も他界し、
私は自分を責める毎日が続きました。
自分が悔しく、
親孝行なんて
これっぽっちもしていない。
しかしながら
感傷にふけっていられなくて
通夜葬式と
準備をしなければならず
涙はお預けになりました。
何もかもが終わって
私は、
一人ぽっちになり、涙が止まりませんでした。
お店を開くこともできず
食べれなくなり、激やせになりました。
気持ちを切り替えるきっかけは
叔父の家に預けられた
あの4年間でした。
とても苦しい4年間だったけど、
あれは母からのプレゼントだったんだ。
と思いました。
私はかなり成長していました。
母な遠くに行ってしまいましたが。
私の中にいると感じました。
輝いていた母、豪快な母
私はあなたのあなたの子供だ!
自信を持って生きようと
あの辛かった日々を思えば
乗り越えられると確信しました。
母が一緒に暮らしていた男の人が
私に母の預金や家の権利書などを
渡されていたと知り、
唖然としました。
こんなにあるんだ!
と驚いたのです。
ネコババもできたであろうと思いましたが
彼は正直に、
お母さんとの約束だからと言って見せてくれてのです。
母は常々言っていたそうです。
私たちが親子喧嘩していても、
どんなに娘がひどいこと言ったとしても
娘には絶対手をあげないでくれと。
あの子は出て行ってしまい、
二度と戻らない子だからと
言っていたそうです。
そして私が死んだら、
これを娘に渡してやってと
言ったそうです。
これは
母は自分のためにコツコツと貯めて
老後に使おうと思っていたお金だと思います。
娘の世話にはならず、
生きたいというのが母の信念でもあり、偉大さでした。
彼にもお礼の意味で現金であげることができ、
49日までこの家に魂がいるので、
この家に居させてくれと言ったのです。
彼は本当に母のことを愛してくれたんだなと思いました。
メソメソしている暇などなく
まだ、景気も良かった頃なので、
5年後お店をリノベーションし、
バー(飲み中心の店)から
食べ物中心の店、ろばた焼き風なお店にしました。
母は飲めない人でしたが、
私は、かなりの
酒豪になっていました。
そして、
以前より、細くて強い糸でつながっていた彼より
プロポーズを受けたのが30歳の夏。
ウェディングは翌年の4月、31歳の時でした。
そして、32歳で娘を出産。嬉しかった!
人生の中での1番の喜びでした。
ひとりぼっちから身内が増え
ましてや血を分けた我が子。
お店をずっとやっていこうと思っていたのですが、
子供から離れられなくて、
お店を閉店することにしたのです。
1年後、お店を貸すことにして
家賃収入を得ることにしました。
私はかなりの浪費家なので、
主人の給料だけでは、
生活が成り立っていかなかったのです。
預金をおろしては使ってと
計画性のない生活でした。
でも、いつも“何とかなる”と思う人生観だったのです。
子供に対しては、かなりの教育ママで、
娘の気持ちも考えずに塾に通わせ
小学校受験を目指しました。
希望している学校はすべてダメでしたが、
最後に私の出た学園に入ることになり、
家を新築したことを機会に、
夫の両親とも同居し、
夫が定年になる1年前までの返済で
ローンを組みました。
両親にも少し援助してもらいましたが^ ^
娘が小学校1年生の時に、
下着販売の仕事をはじめます。
主人の両親と同居をはじめてから、
あまり家にいたくなかったのが本音でした。
約10年近く、
下着の販売組織を作るべくして動いて、
在庫も増やしながら、
勢力的に働いていました。
そうこうしているうちに、出費が多いため、
貯めていたお金もそこをついてしまいました。
娘の学校で金がかかっていたので、
もう一つバイトを始めることにしたのです。
まとまったお金が欲しかったため、
私がドンドン忙しくなるにつれ、
夫婦仲もだんだんに機能不全の状態に陥っていくのです。
