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さて先日の事になりますが、東京都美術館で開催されています「ゴッホとゴーギャン展」に行って来ました。
今回は、その中から何点かをピックアップしてご紹介させていただきたい、と思います。
まず最初の作品は、こちらです。
こちらの作品は、ゴッホ作「古い教会の塔、ニューネン(農民の墓地)」と言うタイトルで、1885年に製作されています。
ゴッホはもともと、親戚の画廊に勤めていた関係で、当時の画家達の作品に触れる機会がありました。
中でも、田園風景を描いたミレーなどのバルビゾン派が好きだったようです。
画廊を辞めた後、ゴッホは伝道師の道を歩み、炭鉱夫達に混じって生活を送ります。
そして、絵画の方は1881年から本格的に描き始めていましたが、その頃のモチーフとしては農村などの田園風景、あるいはそこで働く農民でした。
この作品は、朽ち果てて行く教会の建物と農民達のお墓を描く事で、この世の無常さを表しているようです。
次の作品は、こちらになります。
こちらの作品は、ゴーギャンの「水飼い場」と言い、1886年に描かれています。
ゴーギャンは、画家になる以前はパリで株式仲買人をしていました。
そして、その当時多くの画家の作品を目にする機会を得て、バルビゾン派に感銘を受けていたようです。
その後、いわゆる「金融破綻」で失業したゴーギャンは、画家になる事を決意して、各地を放浪します。
実際、ゴーギャンが描いた作品の最も初期の物は、1873年制作の作品がありますが、バルビゾン派の影響が感じられます。
その後は印象派に触れる事で、作風に変化が見られます。
この「水飼い場」は、2頭の牛と飼い主であると思われる男性、そしてそれらを映す水面が描かれています。
筆遣いに、印象派の影響が表れていますね。
そして、次はこちらです。
こちらは、ゴッホの「自画像」で1887年に描かれています。
ゴッホはその後、1886年にパリに移り住みます。
弟のテオが画商として活動しており、その当時のゴッホは、その画廊で多くの作品に触れる機会があった事が想像されます。
また、この1886年には8回目の印象派展が開催されています。
モネやルノワールなどは出展していませんが、スーラなど新印象派の人達の作品が多かったのです。
その影響か、この頃からゴッホの作品はかなり明るい色が取り入れられています。
筆遣いもダイナミックですね。
続いての作品は、こちらになります。
こちらは、ゴッホ作「モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏」と言う作品で、1887年に描かれています。
前の「自画像」の所でも触れましたが、この当時のゴッホの作品は色彩が明るく、筆遣いなどを見ても、新印象派の影響が感じられます。
この作品はパリ郊外のモンマルトルから、パリの中心部を眺めた図になります。
田園を愛したゴッホは、パリに住みながらも、このような風景が好きだったようです。
そして、次はこちらです。
こちらは、ゴーギャンの「ポン=タヴェンの木陰の母と子」と言う作品で、1886年に描かれています。
印象派展に何回か出展したゴーギャンでしたが、その作品は全く評価されませんでした。
失意のゴーギャンはパリを離れ、ブルターニュ地方のボン=タヴェンと言う所に移り住みます。
そこは、他にも多くの画家達が集まる場所だったのです。
上記の作品はその時描かれた物ですが、女性の洋服がこの地方独特の物です。
そして斜面をモチーフにしている関係上、左側と右側の間に大きな境界が出来ています。
この様な境界を描くと言う事は、当時としては斬新だったようです。
続いては、こちらです。
こちらは、「マルティニク島の風景」と言う、1887年に描かれたゴーギャンの作品です。
この頃、ゴーギャンは自然豊かな風景とそこに暮らす素朴な人達に憧れを抱き、フランスを離れます。
最初はパナマに向かいましたが、思い描いていた理想とは違っていたため、カリブ海のマルティニク島に移ります。
この作品は、マルティニク島の様子が特徴的に描かれています。
温暖な気候を象徴するかのような赤系統の色が、全体を覆っています。
そして、南国独得の背の高い木も描かれていますね。
次にご紹介させていただくのは、こちらの作品になります。
こちらは、1888年に描かれたゴッホの「ゴーギャンの椅子」と言う作品です。
ゴッホは都会的なパリでの暮らしに疲れ、1888年にアルルに移り住みます。
最初に生活の拠点を置いたホテルを「黄色い家」と呼んだそうですが、一面に黄色く描かれたゴッホの代表作「ひまわり」を見ても分かるように、ゴッホにとって黄色は重要な意味があったのでしょう。
ゴッホはこのアルルで、画家達が集まって創作活動をする、コミュニティを作るつもりでした。
そのメンバーの候補の一人がゴーギャンでした。
この絵に描かれている椅子は、ゴーギャンが使うべくゴッホが用意した物ですが、ゴーギャンに対するリスペクトが表わされている、と言われています。
なお、アルル滞在中のゴッホは、風景画や人物画、このような静物画など数多くの作品を残しています。
一番活発に活動していた時期でした。
そして、次はこちらです。
こちらは、「アリスカンの並木道」と言う1888年に描かれたゴーギャンの作品です。
このアリスカンと言う地名ですが、浴場や競技場のあるアルルの街の中にあります。
アルル、と言う事は、ゴーギャンがゴッホと生活を共にした場所ですね。
この作品は、ゴッホとゴーギャンが2人でスケッチに行った時に描かれているそうです。
絨毯のような、赤や黄色の落ち葉が印象的ですね。
個人的には、このような色の描き方は、フォービズムを連想させます。
続いての作品は、こちらになります。
こちらは、ゴッホの「タマネギの皿のある静物」と言う1889年に描かれた作品です。
アルルにおいて、ゴーギャンとの共同生活をしていたゴッホでしたが、結局その生活は2カ月しか続きませんでした。
そして、精神的に不安定になったゴッホは一時入院します。
この作品は、その入院後に描かれた物です。
テーブルには皿、玉ネギ、パイプ、タバコ、手紙、マッチ、蝋燭などが置かれています。
いわゆる静物の作品ですが、ゴッホ自身や周囲の人・物を象徴的に描いた、と言われています。
その後ゴッホはアルルを去り、療養院に入ります。
その頃は、療養院から見える風景画や自画像などを描きます。
そして、退院後も製作活動を続けますが、最後は拳銃によって自殺してしまいました。
そして、最後はこちらです。
こちらは、「タヒチの3人」と言うゴーギャンの作品で、1899年に描かれています。
アルルでのゴッホとの共同生活を解消したゴーギャンは、題材を求めて1891年タヒチに渡ります。
そこでは、多くの自然やそこに暮らす人々の生活ぶりを描いています。
しかし生活は苦しく、1893年いったんパリに戻ります。
そして資金を調達した後、1895年に再びタヒチにやって来ます。
その後、太平洋の別の島に移り住み、生涯を終える事になりました。
以上駆け足になってしまいましたが、ゴッホとゴーギャンの作品を5点ずつ紹介させていただきました。
ゴッホの作品とゴーギャンの作品が入り混じっているため、お分かりになりにくいかも知れませんが、時系列に沿って紹介させていただきました。
悪しからずご了承ください。
なお、ゴッホはその作品が存命中に評価させる事はなく、従ってその生活はかなり苦しかった事が想像されます。
そんな彼を経済的に支えたのは、弟のテオでした。
しかし、ゴッホが亡くなると、テオも後を追うようにこの世を去ります。
結局、ゴッホの作品が評価されるようになったのは、テオの妻ヨハンネがあちこちの画廊に売り込んだからでした。
また拳銃で自殺した、とされるゴッホですが、拳銃を触っているうちに暴発した事による事故死と言う説もあり、謎が残されています。
今回もまたまた長くなってしまいましたが、最後までお読みくださいまして、有難うございました。(^◇^)










