香港返還・一国二制度(1日)
暑い日が続くので、外出が億劫になり自宅でPC、TVと関わっていることが多いが、仕方の無いことだろうがニュースは同じような事ばかり。「ウクライナの戦況」「熱中症と全国の気温」「物価の値上げ」....その中で「香港返還から25年」と「一国二制度」と言う事が目に付いた、後者のことについては中国のトップが「成功だった」と厚かましくも強弁する、あの国の体質かな?
香港にはトランジットを含めて何回か行ったが、最後に行ったのが返還の2年前、1995年4月末頃だった。大阪の燃焼装置のメーカーからの依頼で「広州造船所」に緊急で行くことになった。日本でビザを取ってると時間がかかるので香港でビザを取り陸路「広州造船所」に行くことになった。其の当時の香港の空港は啓徳空港でビルの先端を掠めるように離着陸する写真が良く見受けられた。空港で香港の商社の人間と落ち合う、シンガポーリアンと同じような早口の英語だが私にはアメリカ人の英語よりは数倍も分かりやすくビザの取得も問題なく済んだ。
バスは満席に近かった、其の当時の香港の通行は英国と同じ車は左側通行、出国ゲートを過ぎてすぐに中国の入国ゲート、特に検査も無くスムーズに通過、ゲートを過ぎたバスはここから右側通行になります。入国のゲートを過ぎて間もなく二人の人間が走行中の運転手に何かを頼んでいるようだった、バスは高速道路なのに路肩に停車。二人の人間(台湾人との事)はバスの窓から丸見えの法面(のりめん)にへばりつくような姿勢で尻を出して「ウン」をしている、時々バツの悪そうな顔でバスを見上げてた。
そんな茶番劇があって退屈せずに広州に着いた、一旦ホテルにチェックインして着替えてからタクシーで造船所へ。
その頃の造船所では英語を話す人が少なく商社の人間が通訳として現場まで着いてくる、状況を聞いてみると日本で聞いた話とは違う、彼等は機械の運転方法を良く理解出来ていない、明日には船級検査があるのだがその方法が分からないのだった。結局翌日の船級の受験時の立ち会いは私が行う事になってしまった、あの当時はこう言うやり方で無償のサービスをさせられることが日本メーカーにも多かったようである。