神による絶対評価において、義とされていること。それが究極的・根本的な問題であり、人間的な善悪はその次の問題です。
 
この第二のものを第一にしてしまうと、結局人の評価に振り回されて生きることになり、神のことは二の次になってしまう。すなわち、神に罪を犯すことになるのです。 

律法によって生きるとは、人の評価によって生きることであり、パウロが罪からの解放を律法からの解放としてとらえたのは、そのような意味においてではないかと、私は理解しております。