神が聖であるということは、人間の創造主である神にのみ、人を義とし、また罪に定める主権が属するということです。この主権を、人間が犯すことは出来ません。人間には、ひとを断罪することは許されていないのです。それについて、以前「神による絶対無条件の義認」という言葉を使いました。
人間の眼から見て、善良であり、偉大である者が神に義とされる訳ではありません。その逆もまた然りであって、人から侮られ、無視されているような者が神に義とされることもあるのです。
神からの絶対無条件の義認を真に受け取ることが出来れば、人は人の眼を恐れることもなく、又うぬぼれることもなくなります。神に義とされていれば人に義とされる必要はなく、一方で己れの持つ如何なる能力や徳も、神の眼に己れを義とすることは出来ないことがわかるからです。
神が絶対無条件に義とする者は、第一に御子キリストであり、そしてキリストに属する者、キリストと一体化された者です。具体的にはクリスチャンということになりますが、クリスチャン以外にもキリストに属する者がいることを、私は否定しません。繰り返しますが、人を義とするのは神の主権であり、クリスチャンであろうとなかろうと、神はご自身の欲するままに人を義となさいます。しかし、キリストを信じる以外に、キリストに属する者となる道は人間に明示されていません。従って、キリストを信じなければならないことを、私は留保することなく主張致します。

人間の眼から見て、善良であり、偉大である者が神に義とされる訳ではありません。その逆もまた然りであって、人から侮られ、無視されているような者が神に義とされることもあるのです。
神からの絶対無条件の義認を真に受け取ることが出来れば、人は人の眼を恐れることもなく、又うぬぼれることもなくなります。神に義とされていれば人に義とされる必要はなく、一方で己れの持つ如何なる能力や徳も、神の眼に己れを義とすることは出来ないことがわかるからです。
神が絶対無条件に義とする者は、第一に御子キリストであり、そしてキリストに属する者、キリストと一体化された者です。具体的にはクリスチャンということになりますが、クリスチャン以外にもキリストに属する者がいることを、私は否定しません。繰り返しますが、人を義とするのは神の主権であり、クリスチャンであろうとなかろうと、神はご自身の欲するままに人を義となさいます。しかし、キリストを信じる以外に、キリストに属する者となる道は人間に明示されていません。従って、キリストを信じなければならないことを、私は留保することなく主張致します。
