百人一首の歌人-14 小野小町 | 松尾文化研究所

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百人一首の歌人-14 小野小町

「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」

(桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに)

 この本では、小野小町を吉子とし、父親は小野篁、母親は藤原冬嗣の娘と断定している。そして、五節の舞姫に小町が選ばれたことから始まっている。この舞姫に選ばれることは美人で教養があることが条件で、小町は美人としての誉れが一際高かったとしている。小町16歳の時であった。その3年前、小野篁は遣唐使を拒み、隠岐に流された。その際詠った和歌が「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟」で、それに対して小町は「おきのゐて身をやくよりもかなしきは都しまべの別れなりけり」という歌をつくったという。彼女は殊の外目を引き、その催しに参加したなかには仁明帝や皇太子、在原業平などもいたとのこと。小町はそのことにより皇太子の更衣として出仕したが、仁明帝に見初められ、彼と初めての契りを結ぶことになる。しかし、その後は皇太子への気遣いなどで仁明天皇との関係は希薄になり、藤原良房の圧力のこともあり仁明帝は病に倒れ、亡くなってしまう。その際、仁明帝のお付きで小町との間を取り持っていた良岑宗貞は出家してしまう。後の僧正遍照であり「天津風雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿 しばしとどめむ」という百人一首で知られる。遍照とは一生付き合うことになり、特に父小野篁が亡くなった時、寺参りに行き、遍照と歌のやり取りをしたことは有名である。

 いはのうへに旅ねをすればいと寒し苔の衣を我にかさなむ 小野小町

 世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたりねむ 遍照

また、遍照が主催した歌の会には小町のほかに在原業平、紀友則の父の紀有友、百人一首「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」を残した源融などの歌の名手が集まった。さらに在原業平が恋した後の母后高子が主宰した歌の会にも参加し、在原業平、源融、百人一首「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」の文屋康秀などが集まった。

在原業平とはお互いに魅かれるところはあったらしい。男女の関係は結ばれなかったが、歌のやり取りを多くしている。

秋の野に笹わけし朝の袖よりも逢わでぬる夜ぞひぢまさりける 在原業平

みるめなき我身をうらと知らねばやかれなで蜑の足たゆく来る 小野小町

空を行く月の光を雲ゐより見でや闇にて世ははてぬべき 小野小町

雲晴れて思ひ出づれど言の葉の散れるなげきは思ひ出もなき 在原業平

お互いに美女と美男を自認している同士、誇りの高さが滲み出ている。

その後、かさねという侍女と生涯暮らし彼女の孫の面倒まで見ている。その間に紀有友の息子の紀友則を紹介され、「ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ」という歌に接し、新しい時代の到来を感じている。

「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」の凡河内躬恒が訪ねて来て、自分は歌人を職業としたいと言われ、不思議な気持ちになるが、結局小野小町も晩年は歌人として従四位まで昇りつめた。最後にかさねが辞世の歌と称した歌を残し、仮寝をしているように静かに亡くなった。

あはれなり我身のはてや浅みどりるひには野べの霞と思へば

小野小町から連想される歌人がいる。それは額田王である。山本健吉の「柿本人麻呂」を読んでいたら、額田王が何度か登場したので紹介する。まずは、天智天皇が近江遷都の時、道すがら国境の奈良山で、額田王に命じて、大倭国の国魂が鎮まる山、三輪山への別れの儀式歌を作らせた歌。

味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隅 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや (巻一・十七)

    反 歌

三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや (十八)

次いで、蒲生野に遊猟の時、額田の大君が作り、大海人皇子が答えた歌。

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王

紫のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑにわれ戀めやも 大海人皇子

さらに、斉明七(661)年正月、中大兄皇子の軍が、唐・新羅の連合軍と戦う百済を援護するために、飛鳥から北九州へ向かった。この歌は、その途中で伊予の熟田津という土地に立ち寄ったときに詠まれたと考えられている。

熟田津つに船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

その他、有名な彼女の歌を掲げる。

 斉明天皇代

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ(万1-7)

 紀温泉に幸せる時

三諸の山見つつゆけ我が背子がい立たせりけむ厳橿が本(万1-9)

 近江天皇を思ひて作る歌

君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く(万4-488、8-1606)

吉野より蘿生むせる松が枝を折取をりて遣りたまへる時、額田王の奉入たてまつる歌

み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言みことを持ちて通はく(万2-113)

こうして小野小町と比べてみると、額田王の歌は素朴であり、ストレートである。万葉集の世界と古今集の世界の違いが明確である。それを正岡子規のように万葉集礼賛とはならないが。

さらに、私も訪れた京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山の寺院、随心院は、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」等がある。小野小町を愛したといわれ、小町が私の元へ百日間通い続けたら結婚してもいいと言い、九十九夜通ったが、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている。ちょうど桜が満開の時期で、小野小町の華やかさが桜に乗り移っているような気分を味わった。下図に小野小町歌碑と襖絵を掲げる。この襖絵も小野小町を彷彿とさせるものであった。