日蓮大聖人御書(大石寺)

 

 

【祈祷抄】

文永九年、五十一歳

 

   此の国に仏法渡りて二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師仏法立て始め給ふ。昔上宮太子云はく「我が滅後二百余年、仏法日本に弘まるべし」伝教大師延暦年中に叡山を立て給ひ、桓武天皇は平の京の都をたて給ふ。王法の栄へは山門の悦び、されど世は既に関東へ移りぬ。

 

〈承久の合戦(1221年)〉

承久三年四月十九日京乱れし時、関東調伏の為隠岐法皇(後鳥羽上皇)宣旨を発し、秘法四十一人の行者始めて修法十五壇の秘法行ふ。

五月十五日、京の守護伊賀太郎判官光季(北条義時の外戚)討たれしに武蔵守殿(北条泰時の兵十万)挙兵し、甲斐源氏(武田信光の兵五万)は山道上り、式部殿(北条朝時の兵四万)は北陸道を上り給ふ。

六月五日大津をかたむる手勢数千にして、甲斐源氏に破られ畢んぬ。

六月十四日宇治の合戦、京方大勢軍に破れ武蔵守殿六条へ入り給ふ。

七月十二日に本院は隠岐国へ流され給ひ、中院(土御門上皇)は阿波国へ送られ、第三院(順徳上皇)は佐渡国へ流され給ふ。又殿上人の七人誅殺せられ畢んぬ。

 

本より教法の邪正勝劣をば知ろしめさず、王位の衰へは国土の乱れとなり給ふ。関東、並びに叡山、東寺、園城寺の座主、別当等関東の御計ひと成りぬる故に皆悪法の檀那となりぬ。

 

 

 

   法華経に云はく「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経而も此の経の中に於て法華経第一なり」

一切の菩薩、凡夫は仏に成らんが為に、四十余年の経々を無量劫が間行ぜしかども仏に成る事なかりき。而るに法華経を行じ、仏と成りて今十方世界にをはします。仏の三十二相八十種好を備へさせ給ひて九界の衆生に仰がれて月を星の回るが如く、須弥山を八山の回るが如く、日輪を四州の衆生の仰ぐが如くさせ給ふは法華経の恩徳にあらずや。

一切の菩薩等は法華経の略開三顕一の時願ひしが、広開三顕一を聞きて自界他方の菩薩雲の如く集まり、諸天等星の如く列なり給ひき。

 

迦葉尊者は鶏足山にあり、地蔵菩薩は伽羅陀山、文殊師利は清凉山、観音菩薩は補陀落山、四天王は須弥山、弥勒菩薩は兜率天、帝釈は忉利天、梵王は有頂天、摩醯修羅は第六他化天、日月衆星は我等が頂上を照らし給ふ、是皆会上の諸尊なり。此等は皆法華経にして仏と成らせ給ひて、此の三千大千界の虚空の中にまします。

 

 

 

   提婆達多は師子頬王には孫、釈迦如来には伯父たりし斛飯王の子、阿難尊者の舎兄なり。転輪聖王の御一門にして南閻浮提には賎しからざる人なり。在家にまします時は、夫妻と成るべきやすたら女を悉達太子に押し取られ、宿世の敵となりぬ。

其の後、出家の後に人天大会の集まりし時名聞利養深かりしと、仏の人にもてなされしを妬みて蓮華比丘尼を打ち殺し、具に三逆悪道犯し終には王舎城の北門の大地割れて阿鼻大城に堕ちにき。

三千大千界の人々是を見ざる事なかりき、されば無間地獄をば出づるべからずと思ひ候に、法華経にて天王如来と成らせ給ひける事こそ不思議に尊けれ。

 

 

   諸の菩薩は等覚の位まで上り、元品の無明計りもちて侍りしが、釈迦如来に値ひ奉りて元品の大石を割らんと思ふに四十余年が間は妙覚の功徳を説き顕はさず。而るに霊山八年が間に説き顕はし給ひしかば、諸の菩薩皆妙覚の位に上り、須弥山の頂に登りて四方を見るが如く、長夜日輪の出でたらんが如くに法華経を弘めじ。

されば「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と誓ひ給ふ。

げにも仏前にして誓ひしが如く、法華経の御ためには名をも身命をも惜しまざりけりと思はれまいらせん。

 

大地はさ(指)さばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮の満ちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りの叶はぬ事はあるべからず。

 

 

   行者は必ず不実なりとも、智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず諸天守護し給ふべし。とくとく利生をさずけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りの叶はざるべきや。

日本国に於て此のこと大事なり、此れを知らざる故に多くの人、口に罪業をつくるなりけりとをぼしけん。