私は、同規模の経営者よりは慎ましく生きている方でしょう。広告的な観点を除いた贅沢は何か仕事をやり遂げた後、夫婦で蟹道楽に行くこと。


空間と時間について、空間教の信者は生産が分からずに、また自分が空間教の信者だという事を客観的に見る事が出来ません。


時間がなにか分かっていない。団体の学問教育にて、空間は存在していないと教わりながら、空間が絶対だと信仰しています。


これによって、人生は面白くなくなります。認識と現実のギャップでショッキングな出来事が起きます。家や仕事を愛せなくなり、移動ばかりの位置を浮浪する人生になります。

友情が分からなくなって、新しい人と会う、新しい事をする時の鮮度が最大生産位置になります。人間関係が一年以内に朽ちまくります。



この事について例えば、かに道楽で例えるなら、次のようになります。



まず、自分が支払いに応じた事で、綺麗に盛り付けられたカニが出て来たと感じるなら位置的な人です。位置と位置を基準にした対立構造で俺はお金を払ってるからモノがもらえると考えます。(これがいわゆる陰キャラです。がんばってるのになんで給料が上がらないんだ!とか、がんばってないのにお金もらって得しちゃった!とかです。)位置(自分)が存在論として優先で、盛り付け皿に空間を感じて、生産を感じない人です。

これが個人主義者です。(位置(個人)の型枠が存在として先行している事を信奉している人。)



次は労働の対価として、連続的にかに道楽を感じている場合、労働とかに道楽が連続的な空間になります。マインドフルネスです。

あまり位置を存在論的に優位に立たせて物事は見ていませんが、この人の目にも、そのお皿の盛り付けは空間的に映っています。コースであれば次に出てくる料理もヨコ時間で感じ、次の空間を待っています。

社会主義者です。(流体の先に流体を感ずる事に人生を感じる事が最深部だと信奉している人。)


そしてこの空間ワイドにすると、このような食事をいつでも出来るような収入となり、もっとワイドにワイドにしてゆくと、家賃を払い終わった生活や、絶対に裏切らないパートナー、自分の事を気にかけてくれる友人というワイドなパックが生起します。(これは詰まるところ、宇宙がインザボックスであるという根源的な考えに根ざしています。)

お皿やメディア(広告)やオフィスの様々な盛り付けに対して、常にこの空間判断である場合、人生(生きる)という進みを立体的に感じず、世の中の立体性を認識せずに、移動的な変化にのみ進みを感じる幼稚でペラい人物になります。小さい空間の延長線上に大きい空間を見てしまう。



これを煩悩と言います。


資産形成(貯金がいっぱい)から資産分配(何でもが完璧に回る)を想起しますが、これは資産分配の本来の形成の仕方とは異なり、この想起は非現実で妄想です。(※つまり共産論理を社会主義と個人主義は追うが、実際は生産によって、社会と個人は生起している。)


実際には、縦の時間の上に乗せた成した事(生産)で、蟹道楽やお金(空間的なモノ的なライン)出来ています。(成した事に対して、降って来ている感覚が正しい)また、一緒にかに道楽に行く家族や友人も縦の時間の上に乗った成した事で出来ています。(蟹漁の人が捕って来たとか、調理師が捌いたとか、友人に声を掛けたから友人が出来たというのは構造的に(思考の中でヨコに)捉えているだけです。私達が実感を持ち得る最大、つまり全体的(人生的)にはそうではありません。)


大小関わらず、空間というのは全て持続です。私は嘘をついていません。本当に全て持続で表現的に(漂う感じで)訪れています。

何に立脚した持続かというと成した事です。この私(自分)のカニのオーダーの仕方でも、友人になって欲しいというオーダーの仕方でも、お金を預金に入れようとするオーダーの仕方でもありません。そう思うのは、成して来た事の程度に合った識別(錯覚)でしかありません。


自分がオーダーしてもそれらは生成されません。位置から考えてオーダーが通ったと思った時が悦び。通らなかったと思う時が苦しみです。どちらもガチな錯覚です。


成した事(生産)が先に在って、全てシチュエーションで降りて来ます。

生産にはタイムラグがあります。これも嘘ではありません。意見でもありません。


例えば、サロンモデルリクルートのシステムも、教学も、設置してから後々にヒト、カネ、かに道楽になります。そしてそれらリクルートシステムの生産や、教学の生産は、日常的に知性を働かしたという生産に立脚しています。知性を働かせることが出来るのは解決出来ることを知っているからです。解決出来ることを知っているのは、解決を試みた生産が在るからです。試みれたのは、周囲に在るあらゆるものの生産に試みを感じた(生産の段々の連環に感謝し続けた、分かった)という生産が在るからです。(亡くなった人達の生前の行いも含めて。)(※情緒の話しをしているのではない。時間上の極めて物理的な話をしている。)よって非行為的な感謝から全て連環しています。非行為的な感謝(生産の連環が分かる)の全体度は、いかに縁のまま歩き、その場に居座って、定められた義務(目的)を次々に全うして来たかに立脚します。


サロンモデルのリクルートシステムや教学〜非行為的な感謝まで、これら全ての段々の生産の反映にはタイムラグがあります。持続に表現として反映される迄のラグです。しかしきっちりと全ての生産は有効性を保存しています。有効性として保存されない生産は存在していません。


自分が綺麗なカニの盛り付けを勝ち取ったと思えば思うほど、その生産位置(この場合、位置と位置という非常に低い生産)からの流れ(形態化)が識別の発足地点になります。これはあらゆる物事の形態化を目の当たりにして不幸を体感します。移動(関係付けていない空間への移動)に全体を感じてそれを信じ疑わなくなります。


自分よりも奥に生産をおけば、生産の形態化の先が空間的になります。生産に全体を感じて、移動せずとも空間的になります。(個人的な要望の移動に悪さを嗅ぎ取ります。)





パターン①

学校生活で、気の強い人、気の弱い人、優しい人、優しく無い人を個別に見てしまい、生産で結ぼうとせずに逃げた人。

大人になると、カニ道楽やカネや人の段々の関係を認識せずに、勝ち取った、勝ち取れなかったと考えます。勝ち取れるようになるぞ!みたいな感じです。つまりいわゆる陰キャラがそのままスライドして大人になります。

気が弱かったから、気の強いキャラになろう!的なラインの誤った努力を続けて、どんどん個別バラバラに世の中を認識して世の中の関係の生成自体の認識から離れます。


これは、不幸な人生になります。お金を持ったと思ったり、持たなかったりとを繰り返して、イベント(凸凹)の多さを感じます。上司と部下と同僚が数ヶ月もすれば嫌いになったりします。色々と全体的に識別出来ない大人になり、燃えるという本来生産的な情緒は、感情に落下し、事物や隣の人に対する嫌悪の時に発動されます。



パターン②

パターン1のように位置的(個人と事物)ではなく、学校生活の五教科合計、部活動に流体的に従事した者です。

空間的なワイドな未来(曖昧な将来(空間)の為の勉強や、全国大会出場)の為に、エゴを布施して空間的に勤めた者です。


これは勤め人で、生産からは切り離されていながらも、流体的に従事する横進みの人です。労働従事の年功序列や退職金。職場の大きさや家の大きさに空間を感じ、成長の定義が非生産的(非現実未来的)で、空想未来(空間)的です。


中学、高校、大学は3年〜4年の1セットで始まりと終わりを設けているので、空間は保ち得ますが、世の中に出ると始まりと終わりのセットが設けられていない状態で、尚且つ生産を知らないので、辟易します。

空間をワイドにさせて資産形成、資産分配を考えて、労働(流体的)に従事しますが、生産がない為、マインドフルネスで頭打ちになって、3年〜4年1セットの癖通りに次の空間に移って、同じ事を繰り返します。彼らの人生を支えているのは反生産的責任のみです。



パターン③

学校という枠を疑ったり、下手な権威(先生)に可笑しさを覚えて、結局友情だろうと感じた事を思考的ではなく、なんとなく存在諸関係的に体感した者です。

情(非集団的な仲間)を基準にして行動しており、生産地点が青年期から程度深いので、このようなタイプは、仕え合わせてパターン①のようにはなりづらいですが、全的な正命で停滞して、全的な精進に努めない場合が多く、全的な精進に進まない場合、知性の系が欠損します。


全的な精進に進まない理由は、学校生活におけるパターン①等との比較に優越性を感じ、過去に生きる場合が多い為です。大人になっても、横の時間の過去に生きてしまう場合は労働の隣に、少し深部に在る成立した核家族で停滞します。学校の枠を疑って正しかった時のように、労働の隣の少し深部に在る各家族を疑って、全体に向かうには学校生活での自信を社会でも発揮出来るよう自信を強化し続ける必要があります。

その為には絶えず生産を模索して、跳躍生産を繰り返し実行し続ける事が必要です。




まとめると、空間は持続なので、生産によって変化させるべき。生産によって持続に変化を持たせないのならば、必ず空間スライドの人生で、楽しくない晩年が待っている。若者の時にスライドすれば、晩年にも必ずスライドする。晩年に向かえば向かうほど、間違いなくスライド行為自体がかなり形態化してしまって全的な豊かさを感じない。

責任だけが頼りの、味のない、平凡な、それでいて中庸的ではない、魂の抜かれたような社会人として生きる。エンジニアリング資本企業は空間的な福祉で誤魔化して、それを絶対望んでいる。


外観で見劣りする私達が成るべき事は、まず私が弛まずに生産に従事して、後ろが千切れないように振り返る事。次に自信のある者、あるいは自信を得たい者が同等の生産、あるいは追随して生産を成す。


全員で、パターン①の猥褻なカルマの人を出来る限り愛して、パターン②の流体的なカルマの人を出来る限り愛して、パターン③の保守止まりのカルマの人を出来る限り愛して実践的に全員が抽象に実行的に布施をして、カネ、ヒト、かに道楽を自分に降らせまくりながらも、生産を見つめ続ける力を養う。


猥褻者から順に討ち死にする光景に慣れず、その事物的な作用と関係に入り生産を共有するところに最大生産の本質がある。