荘厳で文化的な沢山のキリスト教信者の共同体である"教会"は「地の国」にあり、「神の国」は絶なる摂理を持ち、人生で一度、現れる論理である。
それでも文化物としての"教会"は「地の国」において福祉的、観光的、文化的な役割を担って、在り方を保ち、歴史や権力から「神の国(自分の人生の存在諸関係)」を解放し、より高次の秩序へ向ける「しるし」となっています。
絶対で永遠なる「神の国」が歴史を超越しているのに対して「地の国」とその政治秩序はあくまで歴史時間的で、非本質的なものに過ぎない。
したがって「地の国」の政治秩序は常に相対化され得るが、それでも伝統的、文化的な教会は「地の国」において「神の国」の伝播を代表しているのである。
ここまでの内容は、紀元後(四世紀〜五世紀)聖アウグスティヌス(尊厳のある者)の文化けです。(wikipedia 神の国、聖アウグスティヌス 参照良し。)
なぜ地の国の伝統文化は内縁(または発生原因、言)に照合出来るのか。言から内縁が発生して、万年に伝統文化があるからです。内縁の膨らんだ先(万年)は八百万(やおよろず)になります。
だから八百万の紀元は、造化三神(天の系譜)から、イザナギ、イザナミ(夫婦)によって生成されています。結婚によって、色(物質の現れ)は善くなります。(これは義認に依る結婚です。娶りではありません。)(古事「記」です。言から己は流れています。)
被造物の間には、神(父なる神)が望まれた相互の依存関係と順位が存在しています。この一致と連帯は、智恵の原理であり、道徳の基礎です。
地の国の"教会"ではなく、神の国の"教会"です。神への信仰があり、行いは通ります。
神の国の教会にいる者にとって、カトリック(普遍)というラベルはありません。地の国において「ローマ(川の流れの集落)カトリック(普遍)」となります。
一世紀の「聖霊は父から出て、子が遣わす。」ということが、経過の中で「父と子から同時に発生している」と言ってよいかの議論が、最初の分裂です。
偶にて然ること偶然、木の中で然ること必然。父なる神は偶然を支配しており、子なる神は必然を支配しており、それは一体である。聖霊なる神の賜物は、必然との関係の中で、偶然として現れている。
「聖霊の出は、父なる神からであり、子なる神との関係の中で、信じる者に遣わされ、聖霊の賜物が与えられる。」
次の分裂は、内縁共同体の伝承は認めずに、聖(ひじり)の筆(経文)だけが最高権威であるとする分裂です。
私が話すとき、三位一体の話し以外は嘘である。しかし聖なる者が一生懸命に話すとき、それらは本当である。また「肉」に支配される者が、一生懸命に話すとき、それもまた本当である。本は紡がれているからです。一生懸命な音です。全身全霊を本音と言います。
(「肉」は、あなた(僕の肉)だけを意味せず、魚の肉、獣の肉など、全ての肉を指します。五蘊有我の見解(物質流転、感受、想像、行動、識別)の所有状態(動物性)を指します。)
実際は五蘊無我(それは自己にあらず)で、五蘊皆空(縁起)であり、縁起の紀元は「神との義の関係」に向かうこと、向かわせることで、安らぎに向かってゆきます。
あなたに紀元前(古い約束)はありません。だから私が払った事(十字架上での三日目の復活)を信じなさい。紀元前(古い約束)ではなく、紀元後(新しい約束)に住んでいます。一世紀に生きると中心はブレません。信じる者は救われ、論理を預かり、行うことが出来るようになります。偶然と必然が与えられるからです。
絶対自由とは、自然に由縁する色の糸です。あなた方は物との関係は全て神から与えられているという信仰と、義の行いによって、後から分かる様になっています。


