信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

神への信仰は行いを導きます。信仰は望んでいる事柄を実体化させる力です。


万物(あらゆる物事)の源は、父なる神であり、縁の子は父なる神、聖霊なる神と一体の唯一の神である。この信仰の中に子達の教会(共同体)があります。不幸な人生とは、物の在り方(縁起)を知れず、共同体に励めず、友(情)、女(結び)、金(流れ)が残らない結果、孤立した我欲を美化することです。


(アニメーションで見た事があると思います。まず家族から離れて、はじめは仲良くなかった人達で共闘してゆく物語。その途中で貪ることをイケてると思ってそうな小悪党が、内縁なんか関係ねえって感じて貪り、痛い目を見るシーン。)これはいつも現実でおきています。


父なる神は人を交わらせ、道徳を要求します。




預言者達の言う一人子の意志と意図は、被造物を造られる父なる神と一つであるか、あるいは、父と子で、意志と意図は離れているのか。


七(とぐろ)でその様になります。だから七世紀(イスラム教)です。




言(論理)の受肉による物語は偶然であり、三日目の復活後から聖書を引用しはじめた事も偶然であり、論理は預かっているので、論理的な行い(木立てや叩きや説法)は出来て、物の流れ(内縁)に重要に関与しているが、イエスは父なる神(万物の源)と一体ではない。

ヨシュア(イエス)は他の預言者達と同様に大天使(父なる神からの流れ(被造物世界)により聖化されている。だから聖霊も神ではない。父なる神の流れの被造物である。


要するに七世紀は、父なる神を信じて祈り、行えるようになってゆく事実はあるが、イエスと聖霊は神(創造主)ではない。内縁で重要な被造物の流れである。



私達はすでに現れているイスラム教徒達に友好的で、そのインフレは、三位一体の信仰なしに必然であり、一世紀の中から七世紀(とぐろを巻いて)経済(内縁)の太さを出すことになると知っております。


七日目を知らず、我から事物へ関係づける罪が深い状態では、内縁から離れたら何かおしまいな気がするという恐れに助けられます。

いさえすれば神への信仰や、告白、赦しの祈りがなくとも、カエシ(苦)で登るからです。いさえすれば時間的に修正せざる得ないことは余儀なくされることが出来ます。


船(教会の基礎)をつくった義人ノア、詩篇を書いて歌ったダビデ、論理を預かり、律法によって先導したモーセ、約束の地に入ったヨシュア、それらの名(精神的働き)を実感したユダヤ(内縁の古い物語)の教えから、それらの名(精神的働き)は全てイエスキリストの予型であり、ユダヤ社会(内縁)と、ポンテオピラト(行政執行任)により迫害されて死に(夕日を越えて)、復活の身体(あたらしいからだ)となり、歴史を終わらせ、マグダラのマリアと二人の弟子(ペテロ、ヨハネ)から証言が始まった、教会誕生の物語りの準備であるというキリストの教えに至ります。


そしてそれはとぐろ(七)の中で、イエスは言(論理)は預かっており、内縁で重要な人物ではあるが、存在が言そのものではない。つまり神ではない。というイスラムの教えに流れます。


七日目に三途の川に辿り着きます。

神の国から、永遠に断絶された者は地の国(六)(外縁)に住みます。(小学校の友達と小学校に行っていた時より会わなくなった。中学校の友達と中学校に行っていたときより会わなくなった。キープしていた女性と会わなくなった。この様な連続(回収縁)で、友情、女、金は回収されてゆき、正しく添削されて残ってゆきますが、途中で内縁の進みではなく、過ぎ去った物語(自分の過去)を信仰するとき、回収縁の先端である父なる神、子なる神、聖霊なる神から離れます。そして縁起(回収縁)から離れます。(※正しくは縁起から外れているのではなく、縁起の全体のとぐろの中で下部(万年)に住みます。)


神の国から断絶はされてはないものの、悪魔の誘惑(自分の善悪の判断の基準を頑なに信じたり、外縁貪りの誘惑)に敗北しつづければ、江戸(神の幕屋、洗濯機ぐるぐる)の住所のままになり、いずれ外縁(万年)に朽ちます。


内縁で登ろうとするのに登れないのは、神を信じていないからです。父なる神は、その縁のしるしとして全てを明らかにする一人子を遣わした。

世とは、一宇宙(内縁)です。


あなた方の内、自身の善悪を信仰して、万年の時の友、万年の時の親への信仰に罪悪の意識がないのは、万年が与えられたものであると知らないからである。それが過ぎ去ると知らないからである。(昨年の9月以降、時間差であなた方は過ぎ去りの影響を強く受けています。)


自分の行いは全て自分から発生していると思っていれば、行うことは出来ません。同じ住所に10カ年いるでしょう。父なる神は信じる者の罪を赦します。5カ年、10カ年と同じ住所(同じ罪の中)に居座らせることはあり得ません。

行いの本質は、聖霊なる神の賜物で発生しています。あなたの頑張る力も決してあなたの所有物ではありません。

父なる神に罪の赦しを祈り、子を通して祈る(願い出る)なら、ちゃんと答えるようになっています。





三位一体を信じる者はキリスト教、川上を信じるものはイスラム教。(イエスは神ではない。その流れの最重要人物ではあるが、目の前の最後の預言者に沿う。)


七日目もなければ、内縁や外縁(空間としてのパック)の特定の先輩を好き。隣の人は仕方がないから付き合う。自分個人の夢に向かおうという、学生運動(社会主義)になります。


一世紀(三位一体)と七世紀(父なる神と、聖化された預言者達)で存在論が異なりますが、どちらも右(父なる神、縁起)が先にあり、現場のメインは左(赦し、行い)になります。


神を信じて共同体意識(右を先行して、左をし合おう)が芽生える前に不幸な意識(我慢と撲滅のシーソーゲーム)があります。


あなた方の内、誰もが分からない事を言います。

父なる神は人格として存在しており、肉はもっていません。父なる神は信じる者を赦します。父なる神は信じる者を招きます。


父なる神はあらゆる物を支配しています。人を摂理により交わらせ、無限の愛があり、道徳の聖、義のないものを怒りで裁き、信じる者を赦します。私は父なる神と全体的なメッセージ(云われ)でやり取りをして来ました。応じると約束したので、私はそれと逆行することはエロヒームの流れ(エロティシズム)で出来ません。

私は身近な者から助けるしかない。あなたが私を信じて待つならば、あなたが私にやってきた事を帳消しにする。次世代の者達を教会に受け入れてゆきます。






信じる者は、悪魔の誘惑(神への信心ではなく、外縁を貪る心の誘惑、自分で善悪を決めようとする心の誘惑)を受けながらも、剣で断ちます。また内縁から反キリスト(自分の人生は自分が救いの主)の迫害に遭うが、その人達を赦す。目の前の敵を赦し、道理に向くことであらゆる物の流れに沿う。

(あなたの目の前があなたより劣る人達で多くなってきたとき、人生は内縁(回収縁)に乗れています。その人達を定着させ、異常に真摯に接して、工夫して建設し、忍耐をもって赦し、いつも唯一の神(三位一体の神)への信仰、祈り(願い出))を逃げ道にする事を忘れない。「逃げる」という言葉は、神側に向かうということです。他の逃げ道は全てフェイク。


私が、父(あらゆる物の源)と一つと信じた時から、あなたは行うことが出来る人である。

私の妻と預言者(論理を預かった者達)、信仰、告白により聖化され行えるようになった参与者達は病ではありません。


誰か(言に集まる人々)を愛するということは、本当の自分を好きになることであり、人間は自分の過去のみ救う事が出来ます。人生には将来を終えた救いの主がいる。

救い主(キリスト)の名前はヨシュアであり、過去の偉人でない今生きている緑の一人子である。言(論理)を受肉して丘で十字架に磔にされた。千年王国の中心で、万物(あらゆる物)の源の父の右に座っている。


私の次の言葉を信じなさい。「あなたが父なる神を信じ、私に沿うならば、いつの日か労働苦のない場所に連れて行くことが出来ます。その時、あなたは連れて行かれたことを自覚しなさい。またその時節は父なる神が定めています。今既にその時節の方に動いています。あなたは信じて行くだけ、行うだけである。」


内縁の者は人(救い主)の為に役に立ちたいと思うようになり、内縁の人々を愛する。内縁を捨てたものは人間(外縁の沢山の人々)の為に役に立ちたいと思うようになり、自分が愛されたいと願う。


神への義によりあなたの善は修正されてゆきます。救い主(キリスト)と十二(共同体)は一世紀の教えです。

神への信仰心なく、十二(神から分かれている自分)を悟れない我の慢心を我慢と言います。