外縁の友達、肉親、は大切です。大切というのは渇愛してはならないということ。内縁から外縁へ連環しているからです。
五蘊(物質関係(これは男女の結びつき方)、感受作用、想像作用、意思的行い、認識)は我れのものでは無い、内縁から五蘊は流れていること縁起の法と言います。
縁起を知らずに行うこと、渇愛することで、苦は展開してゆくこと、十二縁起と言います。
縁起を知り、行うこと善行と言います。
遺跡や文化的書物等、文化物は全てアルゴリズム(十進法)の沈殿物(文化け)だと言いました。日本の三世紀、卑弥呼は魏(中の国)に遣いを送り、中の国の三世紀は三国志の時代、晋(魏)の統一です。朝鮮史の三世紀は、中国王朝(晋、魏)の影響下にありました。
また例えば、日本の前方後円墳は、最も天に近いところに主を葬り、その時代の中国の古墳は、少し掘り込んだ所に王を葬りその上に土を盛ります。
また例えば、言から文に化けていないと想像する場合、昔の人々(数々)は、どの様に石(意志)を運んで遺跡をつくったのか不思議だな等と想像します。(例えば、ピラミッド(三角形のパン)は、石で造られた四角錐(底面が四角形で、側面が三角形の立体)の巨大建造物で運搬方法が不明(水で運んだだろう)となります。全て文に化けています。
初めに言があり、自分の人生は縁起(内縁から外縁へ過ぎ去る)であり、文化けは縁起の中で「只今の自分」に現れているだけです。
言に義を認められ、結婚が成立すると、日本史であり、誰かの結婚の下で、中国史があり、闘いの中で、朝鮮半島のはじまりと連環しています。
この様な証拠(文化物)はあなた方の認識では知り難い。次の言葉を信じる様に。
「昔の時代も、未来の時代もなく、只今だけあり、それは縁起している。」
(だから外縁(人数)に惑わされてはなりません。)
それは○○千年前の出来事だとする想像や、認識は、只今の自分として仮にあり、自分の物ではありません。それは内縁(川上)から流れてきた借り物です。
一世紀の教え、キリスト教では神々(川上)の流れは、劣ってゆく流れだと教えます。
六世紀の教え、仏教では、神々(苦)を見抜き、彼岸(三途の川の向こう岸)に着く為の般若(真理をありのままに見抜く智恵)を教えます。
苦は五蘊(我れのものではないこと)の我執で展開されてゆきます。
僕は業の広がりで、色受想行識は縁起の流れとしてあるからです。五蘊無我です。
簡潔に述べて、内縁は一世紀から、六世紀(五世紀に向かう流れ)になっています。
(一世紀の文化けはキリスト教(救世主の教え)、六世紀は仏教(悟り(五世紀に向かう)縁起の教え)です。)
五世紀へ向かう六世紀の教え(仏教)は
無明(縁起、四諦を知らないこと)で行えば、苦は展開してゆく教えです。無明の治療薬は、般若(真実をありのままに見る智恵)です。般若は五蘊の中にありません。










