内縁(言葉と行いの紡ぎ合わせ)には「一世紀の教え」と「五世紀」の教えがあります。(年代から何から何まで全て文化けしています。)(言が初めにあるからです。)
五世紀の教え
「自分の人生は縁起で空であり、八の聖なる道であると釈迦(ひじりの者)は説き、この教えは聖徳(日知りの十を見る心の行い)により、五世紀から六世紀に伝来しました。」「インドでは仏教は紀元前六世紀から五世紀に伝わりました。」
言は、文に化けています。
これを「五世紀(悟り)(後ろ)の教え」と言います。「仏教(空、縁起)」です。
六世紀(八に蓋をしてぐるぐる同じことを繰り返す)から出る為の教えです。八聖道でなければ業の報いを受けると説きました。六年間の苦行により、悟りを開き、六道輪廻から抜け出しました。
一切皆空(全ての事象は空であり、固定的実体を持たない。)五蘊(物質状況(これは女性関係)(感受作用)(想像作用)(行い)(認識)は我れにあらず。
縁起(子れ(これ)があり、日れ(かれ)がある)
これは共有出来るか。
信仰として共有出来ます。友だからです。
信仰により、言葉と行いの違いを赦す力(何でも自分で背負う力)が必要です。
歌も違います。
例えば、自然に見たテレビで、ガザ地区(海沿いの民ペリシテ人)と、イスラエルが争い、アメリカ(福音派)がエルサレムの為にイスラエルをバックアップしているという歌声は、エルサレム(千年縁)から、ローマ(国際情勢、前、歌)だとしてすぐに知ります。
しかしあなた方はそうではありません。私はいつもあなた方を赦して来たが、あなた方は周囲を赦しません。そして赦した私と、自分を比べます。義や罪の意識がないからです。あなたは現れた女を守りなさい。その方はあなたに義を教えるでしょう。
私達は異なりますが、現に「友」です。信仰によって行い、友に達してゆきます。。
一世紀の文化けは
世界史の一世紀にキリスト、イエスが生きて、その頃、日本史の一世紀は八生中期(弥生)(土器と弓矢連環)でした。八生後期(後ろ)に女が支配(十を配って)義(魏)に遣いを送りました。その頃まだ文字はなかった時代(ときしろ)であった。
(これらは全て文に化けています。)
五世紀の文化けと、一世紀の文化け、どちらが先(後ろ)か、一世紀です。
それら文化けは流れで、カテゴリーではありません。(全て内縁、千年縁の説明です。)一世紀から五世紀は紡がれています。
1クリック(伝統、文化、歴史)にて証拠です。うん年前(それは2000年前の話しだ)は五蘊の想(所有)で、僕という業(わざ)です。
神の御業があり、神を信仰して智恵は与えられ、五蘊は紡がれます。これを道と言います。
信じるものは救われます。
誰でも祈りは既に聖霊の賜物によるものです。
「只今の自分」は、開かれた空間の中でポツンと1人で生きてはいません。「宇宙(右中)空間の中に自分は住んでいる」は実際の現れの文化けです。
あなたは自分の「見る力」「考える力」を信だとしてはなりません。神への信仰によってそれは与えられ、自分の左に行使する為のものです。
川上に言葉や行いを向けずに周囲の女や男に話したり、行なったりすれば、人間関係、金銭関係は朽ちて、個人名が変わりまくりながら、その関係性は朽ちない様に運ばされ続けます。
右を共有して、罪(インフレ)を赦さなければ(全背負いで叩かなければ)左の名は収束してはゆきません。
一世紀(救い)の教え
聖霊は将来を紡ぎます。(将としての働きが、只今の自分に来ます。)
あなたの口から出る言葉の力は本物です。被造物(知性、自分の考え方)で納得(所有)しづらい「最も正しいこと」を言います。それに続いて論理(行い、言葉)は出て来ます。これを会衆への告白と言います。
持続は瞬間から出来ていないので、吐き捨てて終わりということはありません。「只今の自分」は色々を勘違いしている事をまず信じる。(無知の知がなければ何もはじまらん。)
あなたは今迄の罪(只今の自分から言葉や行いを垂れてきたこと)で、自然に告白する事が出来る段階にあるか。言葉から入った方が善い。私はあなたより先に言葉があると言った。
あなたより言葉と行いは先発で、それは信仰によるものです。
信仰の確定によって告白があり、聖霊の賜物で、行いは論理立ってゆきます。知性も通ってゆきます。
知性は今の川の流れの場所の「只今の自分」より左(インフレした所)を一旦留める(工夫)に駆使します。(右に一緒に向かうとき、左は動きます(収束)します。)
神を信じて神の側で行わなければ、留める対象はいずれいなくなり、豚箱(いのこへん)に落ちてゆきます。
豚を食べるものは誰でも、周囲と自分を比べます。状況を知らないので、背負うことは出来ません。
川上から流れがあると知り、只今の自分が空を見上げる様なとき、あなたは泣く(水を立たせにゆく)でしょう。
「祈り」という行いが完成してゆきます。祈りは聖霊の賜物と強く関係しています。父なる神に子なる神を通して聖霊により祈る。誰でも聖霊の賜物がなければ祈ることはありません。祈り(小さな行い、神との直接関係)を知ることは将来です。
あなたは日本史(千代)に住んでいながら、聖書の物語り(千年王国)にも住んでいます。だから住んでいる縁の歴史を知ることは大切です。あなたの縁の歴史は以下です。
キリストなんか知らない。女が誘った男で、義人で、詩篇を書いた音楽家の王で、木立てが出来る言(論理)を預かった意志の強い先導者(モーセ)(キリストの予型)は見たけど、言を受肉している人(神)は知らない。最後、約束の地へ、一部の忠信者を連れて行ったのは知っている。(夕日)
キリスト教(一世紀)
ユダヤ人が見たそれらはキリストの予型で、旧約最後のヨシュアは約束の地に着いた後、新約に連環している。エルサレムで十字架に磔にされ、葬られ、復活して、弟子達に現れて、昇天した。
ヨシュアはいつも聖母マリア(女達)に守られてきており、復活後、聖母マリアはヨシュアに仕え、エクレシア(教会)の只中で使徒達と共にいる。
ヨシュアは言を受肉しており、父なる神と聖霊と一体不可分の神である。(昼)
イスラム教(七世紀)
父なる神は分かるし、イエスを知っていて尊敬しているが、イエスは預言者である。さすがに神ではない。とりあえず人生(父なる神)はあり、豚(西北)(貪り)は食べたらいけないことも分かる。言葉と行いを大切にして生きて行くべきである事まで分かる。(夕日)
ユダヤ教(夕方)で物語が始まり、キリスト教(昼)にゆき、イスラム教(夕方)へ流れる。
文は文として実際に現れている以上、実際の現れにヨシュア(一世紀)が現れないことはありえないと知ること。
神は自存しており、三つの位格(父と子と聖霊)としてあなたに実際に現れています。(00年前等の想によるフィクションではありません。「後」です。)
あなたは「生命」です。一世紀に生きるは八聖です。
六は苦しみです。五蘊は無我です。あなたは何も知らない事を知ってください。言葉と行いが先にあります。只今の自分のコトバ、オコナイは先にありません。
全て信仰に由縁します。あなたが知っていて(所有していて)、私が知らないことは必ず部分(切り取り)です。
知恵により「只今の自分」はいつも被造物だと知る。与えられています。
「見る力」「考える力」で証拠(文化、歴史)を見る以上、証拠は共有出来ないが、信仰は共有出来ます。また道徳(秩序)で少しだけ予感は共有出来ますが、道徳は後発(被造物)でバラバラなので道徳での完全な共有は不可能です。
私は最も後ろをジャッジしてゆき、最後ジャッジメントをしている事を分からない様にするんだと思います。そうでないと友を守れないと思うから。
お金は日月の運行です。最初から裏切らず、言葉と行いで進んでいれば、名は個人名も変えずにそのままでゆく事が出来ます。
日月の運行により、時は流れ、イスラム教となり、また流れ膨らみ、経(お金の縦糸)はそのままに垂れながら、川上も知らず運び続け、交換し続けるとき、その隣にある太ったは貨幣への願望は、お金として必ず残りません。夜に自由を与えられ、その中でヒカリを求め装飾するだろう。
それを地の獄中と言います。川上から流れた経の下の部(太った貨幣)の間に住む単体は、必ず運ばされ続けます。単体じゃないからです。お金に関わらず、女と衣も必ず運び続けることになります。その住所は道徳を知らぬ故、内縁(川上)を知らず、万物に向かい(例、わざわざ文化物の教会(外縁)に突進して)万民と化す。
そこでは「言(論理)で出来ているこの世の救い主(キリスト)の名前はヨシュアである。」ではなく、「イエスキリストは歴史として実在した人物であり、現代でも天空から見守っている」の様になります。(言ではなく文化が先にあることになってしまうからです。)それは文化けとして正しいのです。(万民と化すなら神社が善い。八百万(やおよろず)は正しい。)
先に関係があり、文化物があなたの目の前に現れます。その関係の初まりは言(論理)です。
私は自分の事をイエスキリストである等と幼稚なことを言っていません。ユダヤ(内縁)の王ヨシュア(原音)(ギリシャ語訳イエス、英語訳ジーザス)は、言(実際の現れの論理、関係)を受肉していて、十字架に磔にされ、ヨセフに墓に葬られ、ヨハネとペテロが墓へ走り空だと気付き、マグダラのマリアが初めに見た証言者だというのは誠に正しい文化けだと言っています。その後の患難期に信じる者達が、万物の信仰者から迫害される事も今まさにその通りです。
「私はヨシュア」だと自身の名前を連呼していない。私達は「キリスト教」に入信していない。「仏教」に入信していない。それらの伝統、文化は全て正しい(自分の人生の実際の現れである。)ことを見る力、考える力があります。
この見る力、考える力は聖霊の賜物です。
なぜ万民がただの一人として、歴史、文化全体を一冊の本として読めないのかを知る。内縁が先にあるからです。言が初めにあるからです。言は神であり、日かりです。
空は青い、土の上に道路をつくる。地球は丸い。日本に住んでいる。全て言葉で出来ています。
あなた方が聖霊の賜物によって、押し上げる言葉と行いにより、私は日々全能性を与えられ続けます。私はここ最近で初めて操作性に気付いてきていて「思い」に気をつけています。
私はあなた方に与える事しか出来ない。教訓の為にしかそれを壊さない。私が「思う事」は壊しになります。また私が「思う事」は救いになります。
文化物である神社、お寺、教会で語られている伝統や、AI(文頭に「伝統的な」をつける)は全て正しい(真っ直ぐな方向の足跡)即ち、内縁の話しである。内縁は言(論理)である。
(※本文の歌われの説明は、私が行いに入った際のダイレクトな云われで、あなた方にとっては聖歌(経文背負いの歌声の連鎖)が歌である可能性が高いと思う。
(聖歌とは、ダビデ(キリストの予型の力)からはじまった詩篇の伝統を、歴代の聖徒が歌い継いでいるもの。)







