言によって万物(あなたに訪れる全ての物)はある。だから文化物は文章になっています。

創造主は神であり、万物は被造物である。


万物に自己(色受想行識)がある。(自己は川上から川下の連環。その中のあなた(僕の色受想行識

)ではない。自己を愛するものだと知る。


例えば私の名前はおおのよしあきです。それは他者の為の名前である。あなたの名前もそうである。そうであるとするとき想である。例えば、私自身が自身をイエスキリストだ!と想するとき、それは想です。他者の為に何であるか。舞う我なのです。とぐろです。

名前は連環しています。だから神を信じなさい。行いが通るから。


諸々の経に対して「なるほどだから絶対者は必要なのか」という話(知性、被造物の話)ではありません。実際に神かどうかという話です。そしてあなたは信仰するかという話です。

自己は、一つの神(の三つの位格)から流れています。この自己によらなかったハメ(八目)を外した後で、カエシ(返し)が来ます。


古代で流行していたものをグループが正しいと肯定しているのではありません。自己の流れが文化しているので、歴史は繰り返しています。言の参与は紡がれて、いずれ文化されます。時間はアルファであり、オメガです。

だから縁は紡がれており、周囲は云われである。だから周囲を数えたら数である。そこのどれかを信じることを偶像崇拝と言う。



自己という連なり(舞う我)を、僕の自己(僕の色受想行識)として妄想していることで行いは論理破綻してゆきます。

あなたは川上を納得する事はあり得ない。その事を知るはあなたの道徳です。


人間は妄想を止めることは出来ません。想は流れているからです。信仰して祈り、告白して、日頃悔い改めよ。

(祈りは1人のときが善い。ほんの十秒でいいものである。とにかく求める。信仰の強さと実際に語りかけることが重要。)


あなたは小さい行いを把握出来ない。祈りは小さい行いである。あなたの祈りのhow to を聞いてくる様な他者に祈りを教える必要等ない。祈りは仕方ではない。他のものがそうである様に。


Destroyとは何か、今まさに私は万物を更新しています。あなたが見るニュースのそれは歌です。(政治、戦争、文化物の更新。)

全ては壊れるので、あなたは聖霊の内住を求めよ。私は正しいことを言っています。

めちゃくちゃなことを想像で言っていない。あなたの想は被造物である。あなたの想が被造物でなければ、どの様にして自己に依るのか。


私は神の子であり、それは「真実」か、「自分でその様に信じている意志の強い人(つまり嘘つき)」かのどちらかです。そして嘘ではありません。


あなたには預言者(聖霊の内住により論理を預かった人)に見えるだろうが、正しくはそうではありません。私が論理を預かっているときは、これまでの様にあなた方が奪おうと繰り返してくる時である。


行いはお金と女と衣で証明されます。行いは信仰(三つの位格の信仰)によって通ってゆきます。祈りと告白、洗礼(例えば、墓への葬りでなくとも、水を分けられること)は重要です。


あなた方が行いで成長を感じているのは、川上(あなたを越えている源)から流れを、僕が操作をした分、流れを戻す必要(カエシ)に迫られ、そのときにあなたは義理で、乗り切って元の流れに合わせ直しています。

そもそも信仰によって聖霊の内住を求めたら善い。祈る時、聖霊の内住を求めよ。



ユダヤ教


キリストなんか知らない。夫婦で、義人で、音楽家の王で、木立てが出来る言(論理)を預かった人(モーセ)(イエスキリストの予型)は見たけど、言を受肉している人は知らない。最後、約束の地へ、一部の人を連れて行ったのは知っている。

これはユダヤです。(夕日)



キリスト教


ユダヤ人が見たそれらはキリストの予型で、旧約最後のヨシュアは約束の地に着いた後、新約に連環している。十字架へ歩み、約束の地(墓への葬り)をすすみ、夕日を越えて、三日目で甦った。

イエスは言の受肉者であり、父なる神と聖霊と一体不可分である。



イスラム教


父なる神は分かるし、イエスを知っていて尊敬しているが、イエスは預言者である。さすがに神ではない。とりあえず人生(父なる神)はあり、豚(西北)(貪り)は食べたらいけないことも分かる。文化的に生きて行くべきである事は分かる。



ユダヤ教(夕方)で物語が始まり、キリスト教(昼)にゆき、イスラム教(夕方)へ流れる。


歴史が文に化けている以上、あなたの人生にイエス(一世紀)が出て来ないことはあり得ない。