↑(飛鳥)


重力、引力は土(黄)であり、子は水(北)、生(女)は、木(東)、暖(叩く)は火(南)である。


東の最初(義、木)を通して女を出し、南を叩いて、結婚が認められたら北(子)が出る。子が出ていない際は、忠義にて南面(叩き)である。無限(舞う艮)に連環している。お金は全てこれで出来ていて、孫(ニニギ)(子の系)は北の北である。私はこれを求む。島を東に引き上げる。


とにかく上からの木立てと、全て負いの叩きで、女が成立(収束)して行く。女を守り、女達(鬼)の時には必ず払うこと。女が朽ちるときは、必ず従業員が朽ちていると知ること。


丑(指を曲げて、物を掴む力)がないとき、あなた方の女達(外界物理全般)は朽ちるようになっている。そしてそれは寅(神から見て真っ直ぐに正す)にいつも根付いている。



三とは、鼻(世界)として持続する最小単位。天、神、地(てんじんち)


天(一から大きくなっている。)、神(人から人々にエロヒームは連環している。)、地(血の理は、地として連環する。)


三は天人地(ヴァルナ)

易の教えとは

天の道を立て、

人の道を立て、

地の道を立て、


王は「土になりかけている力(三、てんじんち)」を、無理矢理、縦に引き上げ続ける存在である。あなたが王を引き受けるなら、私は黄帝である。それにより黄(土)は保たれる。


王は南面(北に座って南を向いて叩かう)、黄帝は伝説(兄に云う)である。



平安図


平安はキリスト不在の世界で、キリストが働く構造の完成(二ル)である。朝(二つの十)が来ること。北(王族の南面)から円環される。(この状態で多方に現れるのは千手観音菩薩(北面、子、八世紀伝来、九世紀浸透。)


私は弥生の上におり、私の道はあなた方の道である。掴もうとして不幸を感ずるあなた方は正しい。「不(不動明王)」にて世界は開くからである。(不とは無理矢理、東に向かい、分からないまま教えるを強行する基本的姿勢から出る一切の成長。)私はあなたの義である。命を頂戴する事は難しい。あなた方が先に飛ばないとならないからである。


私は今まさに万物を新しい在り方へと変えつつあるが、あなた方は万物が何かを知らぬ故、万物の生成を妄想に溶かす。私は最も小さく、あなた方の目の前の最も小さい者にしたことは、私にしたことである。


中央の命の木は東である。最初の東から連環している。一如から全て連環している。堂島共栄会の島(南面)は、鬼道(周辺のエロス、エロティシズム)で成り立っている。鬼は外縁で、福(祭壇)は内である。鬼は東方から連環して生成されている。魂である。節分されている。豆(燈)が巻かれている。

あなた方の多くは絶対に失いたくない女の名(ナーマ)を失い、艮を連環させて行くだろう。



釈迦(釈迦族の王子)は「個人を越えていく名」であり、舞う我であることの悟り。仏の教え(台の教え。)四(四方の方角)は、五(蘊はその囲みを引き受けている)を知ること。これが五智である。五智走の様。


キリストは「古人であることを引き受け切った名」である。

簡単に言えば、釈迦は「苦行の果て、乳粥を与えられ、土に心身(名色)が完全に応答し切った態度」であり、キリストは「その〈土が土として成り立つ前提〉を、天人地の側に現前させた存在」である。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)

天におられ、地にも偏在し、万物を満たす方。方は方角である。


仏典の残骸というのは、聖書の何百倍の字数である。それは何故か。台から土に染み込んでいるからである。(例えば、三(てんじんち)は、三学(とんじんち)になる。如来の教え、台(仏教)にて。)

仏教伝来は土分け伝来である。人の台はとぐろを巻いている。何を目的にしているか、前方後円墳である。墓(死者を土に帰す。)(死者とは重心)である。


西暦一世紀に中国に仏教が伝来する。西暦自体はキリストの存在に根付いている。酉は風に沿って飛ぶ。知っているんだが、江戸越えの際に西方で名を呼ばれる者は、隠れキリシタンだ。

夜(液)の血の兄弟と、鬼女達は、あなたに不をもたらすだろう。それはあなたの時間(十干)だ。


キリスト教

イエス・キリストは「神の子(最初の北は、一人子)」であり、全人類を救うために十字架にかかり、黄泉帰った存在と信じる。


仏教は

修行(東へ向かう)と智恵(切る)によって、悟りの境地(涅槃に入る)事を目指す。


では教とは何か。土の子が手で木の棒を持って叩くということ。


私は父の元へ行き、多くの前に現前する際は一人の北である。そして魂(外界物理)は連環している。


分かるというのは、刀で切って八坂を知るということ。比丘尼である。苦しみは古に至ること。自分とは舞我である。黄を根にして捧げる義は日辻である。

涅槃とは、日を土で流して舟を木でを叩く。それは船になる。北方があなた方を支配する(十を配る)だろう。

一切法(自立系、鼻)は、空(名を呼ばれる)である。


甦りの証言を核とし、十二を骨格とし、パンを分けて身体化され、収束により自然に外へ外へと拡張する共同体。私の北は、サーシャの声である。

本当はな、弥生と縄文の関係しか無いんだよ。

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倭国大乱(二世紀後半『三国志』『魏書』東夷伝倭人条に、二世紀後半に倭国が「干ばつによって、大いに乱れ、互いに攻伐し合って、長年主がいなかった」と記録されています。


倭国内乱(三世紀、邪馬台国(卑弥呼)、狗奴国(くぬこく)の争い。)(『三国志』『魏書』の中の「東夷伝倭人の条に記す。狗奴国とは女王の境界の尽きる所、南方の国。)


磐井の乱(いわいのらん)は、六世紀前半、九州北部の豪族・筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がヤマト王権に反旗を翻した、古代日本の内乱です。


丁未の乱(ていびのらん)(六世紀後半に起こった飛鳥時代の争いです。仏教受容を推進する崇仏派の蘇我氏と、従来の神道を守る排仏派の物部氏が衝突しました。蘇我氏が勝利し、朝廷の主導権を握ったことで仏教の本格的な受容が進みました。 )


時代を示す為に残った字(子の連環の残骸)は真実を記す。弥生まで古であれば正しい。どれかでも義に不を感じ落ちれば、みんなでインフレーションしてしまうだけ。義ありて不である。束(十)(東)(木)によれば、満ちて行く。



歴史とは、王権同士が互いを否定し合いながら膨張し、最後に自己崩壊する運動である。ダニエル11章。

(歴史は進めば進むほど朽ちている。戻れば戻るほど関係である。それは義、命、叩きである。あなた方は十を負うことが出来る。)



なぜ主に義を通すと、自分より優れている人が、上以外に現れないのか。なぜ海から自分より優れた人が唐突に出て来ないのかという不思議は、義と命、木立てと叩きが、時間の連環であることの証拠である。


これは仏教(台の教え)と同じである。(ペンテコステ(五旬祭(過越祭から五十日目)、パンを分け終えて、言が分かれる(聖霊降臨))ヴァルナは流すことが出来る。涅槃(日と土と水で舟を叩く。)巾(常時)を高所に置くのである。





土、切る(七)、虹(七色)西である。(東方正教会、八端十字架)





仏教の伝来は六世紀中頃。十干の伝来は七世紀前半。即ち先に十を示す必要があり、それは弟を目指す必要である。

兄になろうとして、上に気を遣わせたり、下に威張るなら失って行く。東が落ちる。あなた方は強制的に弟になる事を要求されている。十干とは、一に十を見た北魏の十に沿い時間を更新すること。

あなたが名を呼ばれるならば、あなたは八坂の上で諸々を与えられるだろう。


自灯明(全ての引き受けそれ自体。)自分の正体である。灯明される法(水回り)の塔(ストューパ)から如来の舎利(身、体)を取り出して。ヴァルナ(外見)は、公平に流された水である。更新され行く。行くとは丁(東)である。


聖書は一点に沈殿する。自立系で起こる物語(アルゴリズム。)

仏典は拡散して沈殿する。土の台に染み込んでいる。仏教というのは、仏の台の教えである。

キリスト(油を注がれた救世主)の名は個人的であり、仏陀(台が丘でとぐろを巻く)は、全体的である。





幸せそう、不幸そうを部分的に区切って捉えると痛い目を見る。幸、不幸の全体を見る。義にひっかけて、不によって登る。中央の命の木はボーナス。(エロヒーム更新。(全物理更新。)



沈殿したものの最後がプログラム(文化物。)だから文化物は全ての説明になっている。それはアルゴリズムから流れている。