王と国王は異なる。王は上を超えず、下を越えさせようと心掛けて、経(現在系)を道破した君子(生産の高い国民)である。王は冠を被っていない。
国王とは、現在系から流れて繁栄した後、現在拡張系上で集約的に繁栄を象徴させる肖像的権威(あるいは集約され得る限りにおいての権限の行使者)である。冠を被っている。
未満に商い人がおり、外側と外側への社会的責任で間を繋いで未来を想起する。職業者(民ら)(people)(目なし人)に商い人のパートに所属して新鮮な物資を求めて働き、動き続ける。
(差別主義者になってはならない。僕には僕の思い、あなたにはあなたの思いが有るというのが差別主義で、差位を別した上で手を繋ごうと試みるのが共産主義(この場合新しさの更新が必要)で、差異とは段であると縦に見る者(実際にそこを通って到達している者)が智者行者である。
構造的、職業的、役職的なカーストは仮設であり実在していない。徳的(生産的)に実在している。(正しい回答は実在ではなく実相。)
あなたは王で、智者実践者であるがそれを知らないだけである。
ではどのようにして王を知るか。それは僧に所以することである。王より僧の方が優れている。
三界の外側の信仰(契約)
言葉、感官抑え、生産労働、座、読む。
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義理(契約)、生産的弁証法運動、対象の生産諸関係理解、聞かないと相手が損をする語らい。養護、暗性から怒りの受託。
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思解脱の瞑想、五千発。
思う→執着→欲望→怒り(瞋)を瞑想。
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未生産+思う↓
平面労働、アニメ、読めない、ブルース、期日期限、スポーツ、お笑い、ボランティア、居酒屋(インターネット)、スピード。解放されたい。
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起きたくない。キャラクター性、笑いたい、貪りの為の貯金。無関心、個人的な野心、人脈、可愛がりたい。逃げたい。
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三界の外側との契約以外は全て戒、定、慧である。(思うに落ちるまで。)(思うに落ちると戒定慧が展開する。)
三学が論理であって、論理の想起は論理ではなく想起である。生産の為に知性がある。定められた義務を全うせよ。
行いのない信仰は死んだようなものである。無為を求めるなかれ。行為は無為よりも優れている。行為に無為あり。
金貨は権利(通義)で収穫するものである。権利(要求)してかき集めて使い、また集めるものではない。
感官を抑えた鋭さによって生産あり。感官を抑えないならば、生産の試みは放射下部からの弁証法運動となる。
プラクリティの展開とは一切事象(心境=心Mahat Ahamkara Manasと、境 今現在起こっていることであり、今現在起こっていることはトリグナで説明可能である。
戒定慧に居り、善性を守り、日常で展開しないならば、暗性による展開時は善性が激質化(躍動)され生産に務める。この心は鏡を伴う。これが王である。
君子とは徳の高い、道理や義を知る人。言葉の力を大切にしてきた人。
(付き従えば、加点式の人)
小人とは徳の低い、道理や義に疎い人。つまらない人。
(付き従えば、減点式の人)
徳の高い人は言葉の力を知っている。言葉の力とは、正語に努めてきた過去である。
正語とは、聞かなければ相手が損をする言葉である。嘘をつかないはこのこと。
義理と契約をして、正語に臨むならば論理を知る。展開元に君臨する。君臨しつつ離れようと臨むのならば、三界の外側と契約をして、日常を展開させない。僧は王より優れている。(現象としては睡眠(想)から色界(王)から馴染んでいると知ってゆく。)
正語とは、とても善い行いであり、諸々の善い行いが伴う。(今の関係でやるべき事の内に凄いがある。)
まことに智慧から心境は起こっており、境(今現在起こっていること)に身体は含まれる。
智慧(mahat)は、業(karma)に所以している。
既に形になったものと、名前になったものは無秩序化されてゆく。それを愛することで迷いが生じる。形と名を愛さない場合、生産行為に臨み、正語に臨み、義理に望む。
行為(非行為、生産行為)は善い、無為であれば、身体でさえ維持され得ない。
三界の外側との契約とは祭祀である。祭りとは異なる。祭りとは現在拡張系上に留まる。
三十年余りを務めて知ったことは、小さいことでも、大きいことでもなく、低いことからなんでも生成されているということ。
行為主体は存在していないが、行為はあるということ。行為が主役で、智慧(チェックチェック)も主役。ラージャヨーガ(対象の生産諸関係)は重要な脇役だ。しかし最初はバクティだった。
自立系において、この世の敵とはラジャスである。現在系上においてはこの世の敵とはタマスである。タマスは情けや保護、情緒を義理を恥もなく裏切る。これを何百回受けてもめげずに生産で距離を取ってそれらに与えるのだ。自立系で展開を許さなければ、契約を赦されてゆく。
経済について、広告を超爆発させずに、売上を上げるなら売上は経である。これは友人と家族である。あらゆる経済の理である。一回契約した人と職業を裏切らず生産することでのみ職業を卒業できる。初期化するな。
自立では、三界の外側に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。
感官の対象から、亀が手足を収めるように、感官を全て収めるとき、その人の智慧は確立している。
我と汝の関係おいて、生産行為は赦される。我とそれの関係において人生は破滅する。
賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、意(こころ)を力ずくで奪う。境は意に伴う。
karmaとprajñā(ジュニアーナ)に所以して、本性の順(徳の順)でないならば、意(こころ)を力ずくで奪われる。境は意に伴う。
実に、動きまわる感官に従う意(こころ)は、人の智慧を奪う。
ラージャヨーガ(縦)とは、王(現在拡張系から現在系)のヨーガである。
人は感官と対象を思うとき、それらに対する執着が生まれる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生じる。
怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から、人は破滅する。
専心しない人に知性はなく、専心しない人に瞑想はない。瞑想しない人に寂静はない。寂静でない者にどうして幸福があろうか。
人は行為を企てずして、行為の超越に達することはない。
