生産の本質は「暴力とは」で記述した通りであるが、通俗的に言われる経済観念における生産性に対して、通俗的に言われる一社会人の視点からここでは記述する。

世界中の共産主義活動を支える経済原理の剰余価値という資本主義の養分は入社式以降、搾取されて、転職を繰り返しながら一生を搾取されている大多数の人間を指すが、そのような人間達が資本主義に参加出来る状態なのにも関わらず圧倒的に不参加が多い理由については、自己に対する自信が少なく、周囲から自己への評価を期待する一方で、生産関係に他者と共に入れない事が原因であろう。それ以外にも昭和後期から現在にかけた日本の共産主義的な株式会社の構造、つまり中共やソビエトの独裁政権と構造を同じにする役員と従業員の対立構造による社員への固定給の観念的な定着の作用を通常だと盲信している事。他にも役員側が従業員定着の為に、個人の人権に基づいた働き方の監督を逆に保護と言い回している事に被雇用者が納得している事。また勤務時に忙しさによってモノとの繋がりを深め、経済の生産関係に入らないまま、その場の周囲に対する責任のみで全体性の回復を体感し、共在的空間に留まる事。また両親、友人が既にこの構造に洗脳されている事に影響を受けて流されているのが問題の諸元であろう。この影響で会社が有るものとなり、最悪の場合、そのビルが会社で、そこに就職していると迄定義してしまうようになる。

共産主義者の諸活動は、この白痴層の人達と、資本主義の作用を了解しても尚、自由競争で敗北する人達に対する正義に基づいているが、この正義は唯物史観に基づいており、左寄りの国家が教科書に載せる進化論とロジックは同一である。マルクスと共闘したエンゲルスは、あなたは何主義者ですか?の問いに対して「私は進化主義者でしょう。」と答えた。彼は歴史性(時間性)を理解しながら形態化の暴力に対して、主義、主張としての社会(責任関係)を前提にした対応を試みている事を、自分で客観的に分かっていたのだろうか。

マクロの視点から見れば、資本主義では共産主義主義者に過保護にされるところの白痴層によって国家は経済的に太い幹を形成する。(生産下位の養分を養分として認めるというのが資本主義、共産主義は養分は1個体として平等であり、実社会が存在として先行して有るので、責任に仕え、生産剰余を平等に分配する事が重要だとする。)

また、この労働(隣の責任)を前提にしている日常生活は、人の徳としては、過去に還元された関係を基軸に隣の責任に努めていれば、悪と言えるような行いでは無く、ギリギリ徳と定義出来るような行いである。

端的に存在諸関係の序列をまとめると、世の中は徳に持たれて生産関係に入ってゆく人、労働(責任)に勤めて養分になる人、モノの作用と折り合いをつけようとする人、自己の職業を評価する人、個人的な思考で野心に駆られてさらに養分になる人の順であるが、現代の日本における個々人視点の財力の序列に関しては、大方次の通りである。

モノの作用と折り合いをつけようとする人、徳に持たれて生産関係に入ってゆく人、労働(責任)に勤めて養分になる人、自己の職業を評価して転職を繰り返す人、個人的な思考で野心に駆られて更に養分になる人、この順番で大まかに経済的な序列(個人レベルの序列)が存在している。

存在諸関係の中に、経済作用は確かに存在しているが、存在諸関係の根本に努めている人よりも、根本的ではないモノの作用、流通に行動原理が向いている人の方が、個人の財産が増えやすい傾向というのは、経済活動を生産関係のままに仕合せるという事と、発明された貯金(個人資産)の概念、民事的な枠組みの私有の財産を増やすというのが異なるからである。

生産諸関係の流れを体感に沿って端的に説明すれば、まず生産関係の折衷部に帰依した共同体意識の中で、団体性があり、その中に事業貢献者の先人達がいる体感の元で、その事業における貢献者になろうと奮起する。
始め、共通の利害関係を目的にした集団性の人達は、事業責任の労働に加えて、生産関係に共に入り、成してゆく中で、友人家族を非行為的に形成しそこに団体性から事業を見下ろす事が出来るようになってゆく。
民事的な枠組みの私有の財産とされるものを上記の生産諸関係に根差した方向へ、宗教的(非行為的)に浪費したり、打算的に投資したりする当事者意識の中で、我々は仕合せ、資産を増やしたりしている。その一連の流れは、神への供物(生産主体へのアプローチ)から、生産関係の先端部の国(過去に昇華された関係を基軸にした友人家族)への貢献、事業貢献、生産関係へ向かおうとする精進、社会的責任(横の連環的な貢献)の順番で徳と定義出来る事(上記の順序における徳の大小の幅は広いが)があり、それ以下のイデオロギー、つまり個人が悦ぶ対象としての家族や友人の獲得、維持。
また精進と精進、あるいは集中と集中の間の閑暇を自由として実態と定義してそれを増やそうと考えたりする事は、存在の諸関係から特別に離れて不仕合せる悪と定義してよい。

団体性とは、上記の説明で言えば、まず国家と事業の間のエロスとして触れる事が出来、呼称としては家族友人と大枠で同義であり、過去から現在の時間軸を生きつづければ、そのまま友人、家族は自然的に国家と和合する。(体感的な未来とは、その献身性に対するある種の計画性。)

集団性とは共通の利害関係を一致させた上での目的論的見地に過ぎない。

個人性とは、生産諸関係に基づく強さに対して、基づかない弱さを納得させようとする言い訳。多様性と同義であり、仕合せと対の分断そのもの。分断された被雇用者が更に分散する事で起こるプラットフォーム型サービスを軸としたノマドワーカーのようなもの。

給与というのは、個人あるいは集団における生産剰余から賄われているものであり、当然給与が自己の外側に実態としてあるものでは無い。また法人の資金というのも業界に基づいて紐付けられており、業界の資金というのは、一見物質的な一族という血統の論理(共産主義者が怒る理由)に紐づいているが、それは団体性(抽象性の帯同下)の共同体意識(国家、友人、家族)の生産諸活動に紐付けられている。厳密には、その団体の諸活動というのは、その団体性から少し潜った体感の折衷部、生産主体に紐付けられている。

生産関係から切り離され、暗記教育を真面目と定義した被洗脳者や、その真面目さから更に洗脳され自己愛を膨らました白痴層がさも影響を受けそうな個人主義的な啓発の「リスクを取ったものが、リスクを取らないものの利益を転化させる」という系統の文言は、観念的な経済指標(私有の財産と定義されているもの)を具体的に認識して、リスクと言葉付けしているだけで、そのリスクは言い換えれば、生産関係に入ってゆく非個人的な働きを指す。(私個人的にはとにかく供物寄りの事をすれば八方丸いと体感的に、暗記的に覚えています。)

供物の範囲を自己規制している内に、段々と着実に認識は具体的になってゆき、その流れで世の中をすっかりと見下ろす事は出来なくなって、自己に対して起きて来る物事と自己から関係付けた沢山のモノ、人の世界で訳が分からなくなる。

個人的な悦びを他者に求めて、隣の人から順番に分断しながら、孤立を感じた事で、物と同化しようとして軽度なスポーツや、購買によって全体性を回復し、労働(隣の責任)は職業となり、職業を嫌悪する。

ここで賢明な者は労働(責任)で全体性を回復する。消費購買がその下に位置して、私有の財産の散財の仕方が獲得から経験に変化する。ここで人はバランスを覚える。

ここから更に賢明になると、供物寄り(徳)を前提にして、離れないように意識し始め、私有の財産の概念がなくなり、散財の順序は自然存在への浪費(クリエイティビティ)、経済活動への投資(※個人の株式投資等とは異なる。)となり、定義上の私有の財産の散財の仕方は節度的な愉しみに成る。日常が行動前提になって論理が下に位置する。

個人主義国家は、加齢の力を借りても、ほとんど労働の全体性の回復迄しか分からなかったり、特別に家族や学校の集団生活において団体性に乗らなかった人は、そのままいじけて個人の悦び目的で世界と話してそのまま分断されたりする。

供物寄りが体感で分からなければ、まずは目の前の人と仕事に対して、片思いのつもりで、優しく力強く鬼のようにアプローチをしてゆき、これが充分に過去に還元された時、自然的に仲間(少なくとも集団性)が生まれて方向性(生産関係)が必ず分かってゆき、生産主体が垣間見えて来る。

もし、プライベートと仕事が対立してるようなレベルの具体認識の場合は、両方の上に節度を設ける。これで生産関係がわかってゆく。

全体において、生産とは、本格的には事物として発揮される効用をプロセスにした生産主体に対するアプローチの返報性である。(詳しくは「暴力とは」に記述。)