あらゆる本を二種類に大別すると、特定の知識の体系を伝達すべく構成され、方向(構造)づけられた本と、構造すなわち事象がどのようにオーガナイズされているかを扱った本がある。


人々がなぜ、自分の専門とする分野においてすら、発展に追いついていないと感じがちなのかは、後者の本の理解の不足、即ち世界全体との関わりが失われているという観点から見ると容易に理解出来る。


人間の標準的な生活、家族の営み、友人の共有、稼ぎの工夫、異性関係の工夫。このような文化的生産から離れれば、急速に変化する情報の結合を優先した「専門分野」という語が成り立ち、具体的なシチュエーションで一定期間活用可能な、方向づけられ構造化された本や話しに聞き耳を立てるだろう。


本書のようなタイプの本は、どの専門分野の系列にも属さない構造すなわち事象がどのようにオーガナイズされているかを扱ったものなので、専門分野的なぴったりとした答えを求めている読者の、分類されていて欲しい誤った気持ちに沿う事は出来ない。


現代の多くの日本人は、戦後民主主義的な風潮によって、生物学的なサブストラクチャーを探り出そうとする癖がついているので、多くの人間は全体に対して分類を要求するが、実際には、人々の体験の構造とは文化的、円錐的な段々の諸生産によって型どられている。


そもそも、文化が人間にとっての単なる習慣的なものであったならば、このように論じる必要は無い。私は理系だ、文系だというように個々人の興味の対象、一方向として文化を片付けてよいだろう。


しかし、実際には文化の流れは現象の流れ、業によって行き来出来る次元的な生産諸関係なのである。文化という語は、時間的持続、次元等という言い換える事が出来る。



近代的な植民地政策とは、生物学を世界全体と定義させ、風景化した亜文化交流に正義を掲げる事だろう。これは、あらゆる文化的な生産に従事して来なかった者にとっては、一見全体との関わりとして正しいように感じるだろう。しかしヨコの時間、物質、関係を抱合する絶対空間を全体とする背景には差異が存在している。


この事が、文化的な生産に従事して来なかった者達の、善意の意図にも関わらず、体験にゆがみを生じさせる原因なのである。


文化というのは、生活それ自体の核の打ち立てであり、言語とは単に思想を表現しようとする媒体以上のものである。人間による世界の知覚とは、あたかもコンピューターが言語によってプログラムされているのと同様に、その人の喋る言語によって、知覚世界がプログラムされている。(目の処理のやり方と、耳からの処理のやり方を紡ぐのが言葉。空気の振動(時間)と、光の画面(空間の瞬間)の情報という物理的に異なるものは何かによって統合されていなければ一緒に捉える事は出来ない。つまり異なる物理的な作用を統合している物理以上の存在は、触れないはずであり、見れないはずであり、文化的であるはずである。それは言葉である。

耳のやり方と目のやり方は、先に時間と空間が存在していなければ、起こり得ない。そして統合は言葉の作用でしかあり得ない。

考えを文化的(縦の時間、情緒的)にして、言葉を仕え合わせ、行いを時間深部に向けて成し、その方向に精進すると、この世の事象はオーガナイズされて体験されてゆく。)



つまり、体験というのは人々にとって共通ではない。言語と文化行為の集積を飛び越えて、体験の共有をする事は不可能なので、体験を基準に平等を掲げる事は不可能なのである。左翼的な政治体制が上手くいかない事は、歴史が証明している通りである。


文化の体系が体験を根本的に変えているのは全くの事実である。コンピューターは脳の一部分を延長させ、電話は声を延長させ、車は歩行を延長させた。そして正しい言葉と文化深部の行いは、それらヨコの延長を抱合した体験全体を時間空間内の深部に引き戻させている。逆に正しくない言葉、文化低部の行為は時間空間内を下部に延長させている。


この事によって、ある人間の文化低部の行いを、文化深部の行いに根差した人間は具体的には分からず、抽象的には掌握する事が出来るのである。このようなある人の体験は、文化深部に根差した他者の体験の中に抱合されているという現象は、日常で超連続に起こっている。


文化低部の行いとは、先程の人間の身体からの延長物に沿って追いかける事。(延長物の流れで出来た新しい構造理解や言葉等に魅力のようなものを感じる事。)また、それを知識とし、事象(文化的生産から流れる自己と外界の関係)をどんどんと物事寄り、構造寄りしてゆく事である。(それは肉体においても表現される。いわゆる理系の人の表情が事象寄りではなく構造寄りになっているのは例として分かり易い。瞬きの多さなど)これによって今日の構造教の信者が現れ、構造教の信者が構造の変化の先を未来に向けた進化と定義し、資本主義の作用にエンジニアリング化を乗せて、メディアがそれを権威のように流し、また別の系では文部科学省から人間主義が教育現場迄おりて来る事で、ほとんどネットワークビジネス式に世界全体との関わりを切り離されて、浪漫を最大に見立てた人間主義社会が発生する。白痴層の権威、全体の中のファンクション(タレント、スポーツ選手等、ハイブランド)の支持の発生。


敗戦後の日本は、文化を発展させると言葉で言い、内容は文明を高度化させ人々を依存させ(身体からの延長物をさらに伸ばし、そこに時間(進化)と空間を捉えさせ)自らを家畜化させた。


事象をオーガナイズする事を辞めて、構造的に捉え、学問の本来の意味が矮小化したのである。教育現場の教育と、社交が嘘になり、それを見破ろうとする原初の作用、エロティシズムによって幾人かの団体性が発揮される。日本独特のワルに全体を感じる反ヒューマニズム的スクールカーストがあちこちで生起する。これは自然存在において、反体制ではなく体制側である。



資本主義の中で個人主義の需要と絡みあった出版社がお札を刷るようにして発刊する本は、タレント等の著名人の自伝や、個人を個人的に啓発する本に限られていった。読者は更に自己を強め、分かり易いぴったりとした知識を増やす事を成長と捉えた。しかし、それらを読み、知ったという行いは、現実の生産諸関係、文化的行為の最低部なのである。


本書のような反語的表現や抽象語を理解出来ず、代理経験する能力が少ない人にオススメするのは遺伝子(DNA)の本をどれか一冊。遺伝子関連の書籍の代表的なものは私の知る限り全て遺伝子が空性である(それ自体で成立していない)事を説明している。

遺伝子というヨコの構造の信奉者は縦の文化によってオーガナイズする必要があり、ヨコ未満の行動は自由意志と思っているだけで、実際は自由意思ではなく、オートマティックな物質の働きであり、縦の戻る事のみ自由意志だという内容が書かれている。


活字の羅列を関係付けてしまい、代理経験的に読めない場合は、友人を自分と他者で昇華するように仕え振る舞い、モテる工夫をする事で、事象の理解は高まる。


限界効用の逆にある時間(タテ、ヨコどちらも)の持続において、愛著の関係はモノとの導通(社交の繋がり)に敗北し、モノとの導通(少し深部の社交の繋がり)は徳の発展に敗北する事が分かる。(例えば、異性関係において、ボーイフレンド、ガールフレンドの執着は、経済的支援や社交の繋がりに敗北し、それらは徳の発展(作業の進み)に敗北する。)


これによって、1年や1ヶ月、1週間の過ごし方が上手くなる。