思考を拒絶して、精進する習慣によって、泳ぎ方(労働)を知る。これが理性である。溺れずに、泳ぐ事ができるようになる。


しかし、理性の中にいる魚は、自分が泳いでいるという事を俯瞰しては見ていない。元々泳ぎ方を知っている人は、泳いでいる事を知らない。

理性の作用とは知らないところから順々に分かっているからである。


知っていることから降りれるようにするのが最も重要である。それは「姿(問うを作るスタート地点)」に親しみ、ぶれず、知っているを積む事。


姿とは、反ヒューマニズム的な祝祭、各式。文章なら素読。当会の教学であれば、その様相、雰囲気。ここに親しみを意識的に、無意識的に持つ場合、能力が全開する。


能力が全開するとは、個性(思考)が滅されて「行」まで引き上がること。


最後、その行の流れと決闘し、洗い、遡るところに仏教の真髄がある。


「すがた」を胸と、頭と、腹に据えて、精進する事が、最も重要なのだ。だから私はパロアルトの生産位置を、親愛なる他人(共栄会)に引き上げた。


あらゆる理性(知性)の発足地点にあたる「姿」を、通俗性ではなく、真善美(論理学・倫理学・美学の集約)の内に見出す事で、生産位置が引き上がる。つまりそうなれば、教学が第二生産位置である事を実感出来る。


第一生産位置が「姿」になる事で、より高い生産位置から現象欲層迄の間に、更なるボリューム(スペース)を生起させる。


こうなると、個々人間の理性(知性)の強弱のギャップをそのままにしながらも「姿」によって徐々に全体の統一的な価値が染み渡ってゆく。これは最大生産位置となり、心情においては、信仰となり国(団体性)の体を成す。


よそ見をした時に、一見尊大に見えるお隣さんの形態は、既に私達が私達の精進努力によってノスタルジーに還元された「すがた」を上回って、心に来る事はあり得ない。(形態に引きづり込もうとする現象欲の作用は弱さによってはある)


戦後、バラバラにされた後の私達個人は、まず習慣から入って、精進努力によって戻り、ノスタルジーとされた私達個々人の文化(堂島共栄会からの放射)が、姿として現れる。(誰々の部活動、核家族での精進、恋人への精進全てがここに含まれる)


ここに堂島共栄会があり、その先に祖国が表れる。

堂島共栄会という、あらゆる併存空間を包括している抽象ファンクションが国家と和合する時は政体と和合する時であろう。(現国民の私達は、バラバラ、習慣、節度、精進(教学含む)、すがた、の順(あるいは順というよりは折り重なって)で、全体性を回復している。


私達は敗戦後、落下した「すがた」をロマン主義に見立て、会社と野球と核家族という併存空間をロマン主義まで、引き上げようとしたのだが、そこで残ったものは、習慣と、各式だけであった。


会社と野球と核家族それ自体は、そのまま形態化して、諸々のレパートリーとして生起し、固着したのであった。それらを回収する道は習慣と各式を経由して姿を拠り所とする文化にしかない。文化の流れは行(業の集約)にあるので、習慣(各式)と精進と姿を、経由せねばならない。併存を論駁し、撃滅し、信仰する共栄会を通じて、祖国が表れるのだ。


(※もう一度、「姿」について、現状の団体においての姿とは団旗、各式の姿として、挙手の仕方、反ヒューマニズム的祝祭として、カースト尊重に基づいた儀式的要素など。姿を緩やかに、しかし確実に反人文主義的(最大生産位置寄り)にしていって、奥行きを出したらボリュームが出る為のスペースを作る。そしてこの姿は、バラバラの能力を前提にしない、全体の統一的な価値を創ることになる。)



本記事の「すがた」の作用は、団体の構成要素である私が、今最も団体の人達に、理解と協力を促す必要がある内容であり、これを成す事で、生産位置下位の資本ライン(ヒト、モノ、カネ)の連続性(資本流動性)を成す事が出来る。生産諸関係は確実にそのようになっている。


習慣から精進努力、姿によって戻った。10人から20人の忠義のソサエティと、忠義をにわかに感じる共産圏的(習慣的)なソサエティと、分離しっぱなしの個人主義的な烏合の衆、約10連隊(委員会性)から成る、各隊100人規模、計1000人規模の極小のソサエティは作られる。この小社会生成の後(食われない抽象ソサエティの生産位置以下のヒト、モノ、カネのトルクの回転強度を確認した後)、政体をプロセスに、文化全体との関わりに体感が生起するのであろう。

おそらく、この段階の後にメディア等の関心層の母数(当会の烏合の衆と同一ライン)に対して、メディア上で若干の啓発(テロップと、光と、アクターに対抗)するの考え始めたりする事になるのだろう。


私達自らは、最大生産位置に行為者性を獲るだけ。(数学(言語)において、生活(行為と非行為)において、我々は、生産位置を決定したあとは、勝手に形態化の流れを見ているだけである。だから生産位置を引き上げて、形態位置との間にスペースを作る。そうすると形態位置のカルマ(誰か)が引き上がる。)


全体の統一的な価値を形成する為には、団旗の作用を拡張し、最大生産位置を引き上げ、教学で繋ぎ、放射する必要あり。



考えるの語源は「親しむ」である。

教学に勝るものとは、教学を構成する「すがた」に親しみを持つことである。


バクティヨーガ的作用と、グルヨーガと、カルマヨーガの促進作用はここにある。