私がプレイヤーとしてやっていた異性相手の商売について

思うに、死後に残す人々の運命を、自分自身の運命と感じ得る能力が欠如しているような人達が、現場やメッセージ上で具体的な利益を残す訳でもない相手に施す精進を怠る。利他の快楽を実感した経験が少ない人は、人間関係の深部に入れない。これによって、あるあるのクール8件止まりが存在する。新規に対して人気は取れるが、自身を後押ししてくれる強い後援的な存在が周囲にいないのである。


問題なのは、落下した利己性の快楽を信奉し、女との単なるメッセージのやり取りを隣の同僚とニタニタ笑うような、現場での立ち方に個性を出そうとするような、業績に直接貢献してくれる人に囲まれる程モテないことで、セックスの人数に自尊心を感じようとするようなクール3件の業界マス層、転職を繰り返す求人会社内を回転するフリーターマス層である。


このような落下した快楽が生起している人間は、自身の器の小さい現象欲の発足地点に対して、瞬間的に自己嫌悪(少しキモすぎるかも)を経由して、笑い方に優位性を見せようと、笑い方(アクセント等)を陰キャラと相対的に照らした陽キャラ(陰キャラ)になろうとするところにニタニタの笑いを試みる。雑魚である事で初めて、隣の同僚に現象欲的に想起させた個性を露出するのである。


このように、生産関係優位の儒教的ダンディズムから最も離れた猥褻感の内にエゴを守ろうとし(現象欲に流され)て、キャラクター設定(エゴ)を日々増長させて、悦びと苦しみの対象事物が増えてゆく。どんどん世の中の生産関係が分からなくなってゆく。


このような現象欲者はメッセージのやり取りをしている女の父親や兄弟のノスタルジーを代理経験する能力が欠如している上、その単なる能力の欠如を現象欲の内にニヒリズム的な(あるいはプレイボーイ的な)アイデンティティとしたがるナルシズムを少々に発揮し、更に女が男性の性(ダンディズム)に感じるエロティシズムを認識する能力もないので、単純に結果が出ない。

おそらくなんらかのマイナスを入れ続けていているのだろうとなんとなく分かりながら、答えを外側に探して悩み続けるか、あるいはこれは自分のなりたいキャラクター設定ではないとして、すぐに尻尾を巻いて逃げる。


結果的に営業や交友関係はおろか、晩年、加齢が充分に伴った状況においても、利己的に形態的な生命の存続を妄執するのだろう。この猥褻者をないがしろにせず矯正する試みが、善である事、団体性の基盤になる事は明らかである。


また、このような人間は通俗的に言われる意味の「科学」や「メディア」という言葉にめっぽう弱い。流行的な権威に全体を感じて、即座に屈服するのである。


私達がはっきりと知っとかなければならない事というのは、天文学から始まって、力学、物理学、生物学という流れから分かるように、測量の範囲が全体から狭まっている事が西側諸国(敗戦後は日本も含む)でブームになっている事の正体であるという事。

これは私達は若い内に、迷う前に、はっきりと知っておく必要がある。


変化と変化の間の測量を繰り返した事でそこに現実的な体感的悦び、苦しみが生起して、その測量間、即ち具体的対象事物に信仰が生まれる訳でしょう。


その具体的な短い幅の測量によって自分は全体へ回帰したいと思って、タワマン等の不動産広告的なロマンスや、西洋近代科学の測量幅に全体(広さ)を感じてる訳です。

日常が具体的である事に立脚して、全体を西洋近代科学に感じる事で、それを信奉する事になります。


そのように感ずる人達は、その人達自体が生産関係から切り離された、いわゆる陰キャラ(測量範囲が狭い人)の日常人生だからというのが生産諸関係の全体(学問の本質)です。全体に対する知性的理解が学問の本質です。


愛著をすれば、具体性は生起します。

普段、具体性(測量範囲の狭さ)を繰り返し生起させてきた人間は、その具体性の中で、確かに悦、それに伴う相対的苦しみを感じるので、体感を元にそれを信奉します。なぜなら、その測量の幅を広げた更なる全体的な内容は自分の体感を既に超えているからです。


西洋近代科学というのは、言うなれば鉄道という開放空間やその電車本体の重厚感に主体を認め、全体性を回復する鉄道マニアの全体性の回復と類似します。あるいは格闘技のリングの中の全体性、あるいは個人的な暴力からモノとの繋がりを深めた全体性の回復。(例、全共闘運動の本質は明らかに反米愛国運動。つまりエロティシズム)


西洋近代科学信奉と鉄道マニアの関係を等しいと書かず、類似すると書いた理由について、それは鉄道マニアが古き良きノスタルジーを抱合しているのに対して、相対的に流行を取る為である。これが西洋近代科学信奉者の狭さである。


この狭さによって、文化を形態的に認識し、それによって、形態化した文化と進化が相対関係に置かれる。

短く狭い測量という体感が常時的になった後、測量の全体という雰囲気を醸す西洋近代科学に全体性を感じる落下した人間の作用(落下者のエロティシズム)がある。(会社が凄い、事業が凄い等)


「私は測量範囲の回復、全体にリアルを感じる」という例外のない人間の本質作用の発足地点が、常時具体的である事で、判断、発言、所作が具体的になり、前述の異性相手の人気商売においてもモテない。また現象欲者は論理的整合性が都度の目の前の測量(悦)に近づく事、あるいは測量(苦しみ)から離れる事に規定され、更なる狭い具体的測量のアルゴリズムをどんどんと構築してゆく。


これによって日常でニタニタを追い求め、ニタニタ出来る事以外は苦しみになる。自己放棄に必要な格式的な風土は窮屈になる。


フリーな状況の体感においては、対象の会話にニタニタしようとし、その短い距離の測量の内に既に癖になっている悦びを好む。

あるいはニタニタの現象欲が見破られていると理解する段階においては、対象の会話にポーカーフェイスを選択し、その短い距離の測量の内に固まった苦しみから逃亡しようとする。


これらは彼らが具体的測量を日常的に行っている事を認知していない事、あるいは具体的測量を程度認知しているが本格的に改善を試みていない事が原因であるが、測量の狭さの癖に対して心からの改善を試みない事は、ある種の譲らない決定を下している事に起因している。

その譲らない決定とは、自己の成長の否定である。成長の否定とは、全てを受け入れて敗北者から物語りを始めることを覚悟しない幼稚性を指す。


また、具体的測量を信奉して、西洋近代科学の流行に理知性を感ずるような人間は単純に現象欲に支配されているだけの人であるが、彼らはまず現象欲の作用を自身の一日を掛けて瞑想していない。


膨大な悪業の具体的な測量的認識が祟って、このような文体に触れていない時、啓発者に接していない時は、常時的に現象欲を個人意思と認識するのである。つまり瞑想を怠る。


また、自信のなさが強くなれば、現象欲という言葉を自身の外に置いて解釈しようと試み、自己の内に現象欲の作用を観想する事も放棄して、都度の現象欲に身を任せようとするにまで至るのだ。それは、自分の現状が否定される事、また過去のナルシズムなやり口が否定される事を恐れているからである。

自信を持つ、つまり自分を信じれば、敗北者からスタートから出来るのであるが、自信をつけるのにも根拠を外側に探しているので一生、堂々巡りとなる。猥褻者は猥褻者をキープする癖がある。


そして現象欲者(猥褻者)は接触時、相互に感染し合う。


彼らは若者の時点でスクールカーストの動物的自然性にボコされて反省するか、国体における徴兵によって歪んだ個性を矯正されるはずであった。


また彼らは若者の時点で、家族の流れを受け継ぐ1プロセスであるはずの自己の余計な猥褻感に対して、未だ見ぬ娘や妻、息子の想起させて、罪の意識を感じ、反省し、自主的に修正されるはずであった。


これらは占領政策の現象欲は個人意思的な反学問のアトマスフィアの中では叶わないのである。叶わない理由は自信がないから。多数決に負ける(多数決に乗っかり自己(エゴ)を解放させる。)


団体性は、猥褻者の猥褻作用を緻密に認識した上で、初めてカーストの尊重、格式と学問的整合性(教学)を土台にして旗揚げする事が出来る。


更に猥褻者の悦びの対象であるマテリアルなパッケージを間口に設置する事で、関心を呼び込み、上記の土台に触れて、やっと商品に持たれた株式会社という枠組みから離脱して全体(団体性の一端)へ向かう事は出来るが、それに取り残された強い猥褻者の感染を侮ってはならない。

即ちカースト等の格式や教学を、自身の関係付けの先、つまり併存空間内に設置して、文化的尊重の雰囲気の開放の先にある悦びを信奉する猥褻者の他思考、隣の同僚を意識した現象欲的な発言、所作の感染力を侮ってはならない。


彼らは学生時代、喧嘩する方が徳のある場面で、周囲の前で自尊が剥がされる事を嫌悪して逃亡し、セックスを異性間のエンタメとして愉しむ年齢の時に、自分を受け入れてくれる異性を待ち望んだ。怖かったから。いつも自分が主人公だからである。


挙句の果てに、社会人になっても、地に足をつけて頑張る事を出来る限り辞める為に、ブランド物の所有を自尊の防御の為に望み、自己啓発本を読んで、他者の知らない言葉を知っている自分に酔いしれるのである。


猥褻者の目先の悦びを率先するニタニタとポーカーフェイスのインセンティブを侮ってはならない。言うなれば彼らは具体的な測量(悦び、苦しみ)に実態(神)としているカルト宗教を信仰し、自身の体感(悦、苦しみ)を疑っていないのである。


団体について

予算の限られた中での生産位置の出来る限り隙間のない序列の設置、ポゼッションアートとして、現状で実践的に必要なのは、現象欲者が目を覚ますような怒涛のような作業の進み、即ちM&A等のヒト、モノ、カネのトルクの回転数の引き上げと、併存空間を空間的共在性に無理矢理に引き上げる形態の暴力の伽藍と、ロマン主義でさえ突破することが出来ない大量の猥褻者に対応する異性の固体的美と格式的接客、その獲得可能性とその数量の保管、供給。


これを経由した後、あるいはこの途中経過において、ヒト、モノ、カネを抱合する生産地点(委員会制)を導入する事である。


これは生産位置の序列の段々の間に隙間が空く可能性はあるが、生産位置の関係においては間違いない。