世俗的な暗記教育の形態の場である敗戦後の日本の学校に通う中学生が、学校の敷地内で、隠れて一本タバコを吸えば、エロティシズム(非連続性から連続性への回帰)によっていくらか全体性を回復するが、不登校になって家でタバコを吸っていたらエロティシズムは作用しない。

不登校になれば、禁止の抽象度は下がり、精進から怠惰に移行している訳であるから、学校という節度空間で高まった禁止は既に消費されている。学校を卒業して、大人になっても、もし自らに節度を課さずに、頑張らなければ(禁止を高めなければ)エロティシズムは、その真髄から離れて、残り香として分散し、具体的に作用してゆく。

エロティシズムの残り香とは、男性であれば具体的には女性のスカート(禁止)から下着が見える(違反)快楽や、自己(禁止)が周囲に注目される(違反)快楽が作用する。(※自己(禁止)について、禁止の抽象度を下げる個人主義的な働きによって、全体性(禁止)が自己(禁止)になっている為、自己が周囲の関心を浴びる事が(違反)快楽になる。)
女性の場合であれば、人の彼氏(禁止)や旦那(禁止)が自分に関心を向けている(違反)快楽や、自己(禁止)が周囲に注目される快楽(違反)が作用する。このような具体、分散化したエロティシズムの残り香は、学校生活等でお互いの関係に入る(禁止を高める)が成就しなかった事に起因する。

禁止を高めてこなかった者達の連続性への回帰の衝動、エロティシズムの働きはその分落下する。通常得る事が出来ない価格(禁止)のブランド物の購買(違反)や、自己の所有(禁止)から離れた非現実体験の旅行(違反)、このように主体として認めたモノとの導通によって、自己が薄れ、全体性を少量回復し、低い禁止位置である自己がそれら認めていたモノの主体を、所有の感覚によって、その少量回復した全体性を消費し過ぎ去らせてゆき、再度通常得る事が出来ない価格のブランド物や、自己の所有から離れた非現実体験の旅行で全体性の回復を試みようと繰り返す。

このような消費購買で全体性を回復するような人間の消費購買時以外の日常は男性はもっぱら怠惰かスケベになる。女性も怠惰かメンヘラ(スケベ)になる。

特別不細工では無い女性は、若い頃に男性の下位エロティシズム(学校で1番好きだった人との抽象的な関係)の更に下位に位置するポルノ(スケベ)が、自らの禁止に掛かっている事を経験的に理解して、相手のポルノ観念を拒絶する一方で、一旦違反を許すと、そのラインでの禁止は保ち得なくなる為、禁止はより抽象概念に向かう。つまり愛を育もうとする。(愛著して落下する場合はメンヘラ)

一般的に強い保守的空間の中では、男性の方が禁止は高いと見られるが、個人主義的空間の中では女性の方が禁止は高い。

このように違反は禁止を乗り越えようとするが、禁止そのものを廃棄せずに高める。本来はこうなるが、禁止そのものを意識的に排除しようとして来た経験によって、快楽の生産元の禁止が落下していく。男性のダンディズムはナルシズムになり、女性の女性らしさもナルシズムになる。夫婦相和シはフェミニズムに向かいマスキュリズムになる。

禁止を意識的に排除しようとする働きとは、最も抽象度の高い禁止(天皇)を破棄し、個人意思の自由として違反を率先させる戦後民主主義のフリーダムである。その生産関係(エロス、フィリア、アガペー)を明記した宗教が、逆にイデオロギーとして大量の人々に捉えられるようになる原因がここにある。

我慢とは、モノに持たれた前提のしたい事が出来ない事を指し、禁止は自分の内にモノを含める事。我慢は物側が決めていて自分は不自由であるが、禁止は自分で選択していて自由である。我慢は禁止を高めなかった事で、分散化した快楽がモノに同化する事で生起し、我慢に対して更なる違反(自己所有)を試みる事で、快楽はより具体化、分散化され状況は更に劣悪になる。禁止(快楽の生産元)を高い位置に留めておけば、そもそも我慢しなくて済み、快楽を溶さずに済むのだ。

外側の自由の実態定義と、自由の語源、自分に由(ヨ)るの違いがここにある。

エロティシズムの源泉なんていうのは、ゴシップガールでもなければノッティングヒルの恋人でも無い。近代的な性愛文化の高揚ではなく、むしろ官能的感覚や、愛おしさを抹殺した、ストイシズムと紙一重のものである。

興味から最も離れたところで伝統を尊重する姿や、団体性における節度、格式を尊重する姿は、ノスタルジー(連続性への哀愁)と禁止とを私達に教えてくれる。

自然総体と物質の和合による時間的持続性(文化、生産諸関係)の体感、尊厳(自己)を残した状態においての、最も高度な抽象性を帯びたモノの折り合いである。

通俗的な性欲(ポルノに限定される性欲)は、死に限定される事によって祝祭足り得るのであり、祝祭は極度に非日常的、反ヒューマニズム的な形式によって遂行されなければならない。

生の論理に支えられたヒューマニズムの論理とは、人間から祝祭としての死(連続性)を奪い、老醜を讃美しながら老醜の相対の美を追求する社会なのである。
(現代の祝祭による人間性の回復とは、レストランではなくバーベキュー。作為的な生の論理では「レストランの方が安心安全で清潔な食事が提供されるからそちらが得。しかしそれでは生産諸関係の初発、死(全体性)から生を見渡す事が出来ない。存在の生産関係上、根本寄り美と、老醜に対する相対的な美とは、強い世俗観念の最初のレベルにおいては、弱小校の軟式野球部が、ユニフォームの汚れを気にして練習する姿と、強豪硬式野球部が汚れる事を厭わない姿の間の美的感覚の差と言える。禁止の抽象度の高さの差。)

老醜に対する相対の美的感覚によって、職業者(職業観念に洗脳されている人間)が、自分はこのような形状のオフィスが好きだと検討し、高揚した後、その高揚に愛著しても、高揚は過ぎ去って、愛著した分、その他の不細工な形に対する嫌悪をより生起させる。
抽象的な美的感覚に鈍感で、相対的な美的感覚に迄体感が落ちてモノ(オフィス)と関われば、非仕合せ、不幸が体感になる。

そういうものは、自分1人の錯覚であり、これは1人1人が生の論理(戦後民主主義のイデオロギー)によって、若者言葉で言うところのいわゆる陰キャラから洗脳されていく事で社会通念として漂ってゆく。
自分で作った相対的な悦び、苦しみの世の中の、アベコベを包括する論理的整合性(禁止を高める)に沿う最初の原理は精進であるが、幼少期から打ち込んだ経験があまりに少ない人達に対する考慮を決して欠いてはならない。

彼らは本気で全体性を失い、イデオロギーに洗脳されて小枠で生きているその自覚がなく、悦や苦しみの具体化された日常的な認識に対して損得感情が働き、具体的な対象との関わりで、得を取る、損を取らないという実態性を世界に認識している。何がフィクションか、何が生産関係なのか分からないのである。

経験したい事に意識を向けて、それを繰り返し、習慣にして来た人達。そしてその外側に浮き出た感情を個性と定義して認める、敗戦国の植民地教育(マインドコントロールの働き)。
これによって人々は、次のレベルの禁止を求める確率が減り、コンプレックスの強い人から順に、禁止がない事が合理性だと考え始めた。

幼少期に両親の教育の問題から「頂きます」をないがしろにして、自らの味覚によって食事を比較した事。少年期にがむしゃらにならずに、自らの貧弱な身体能力を比較したこと。青年期に何かに努め励む事なく、自ら不細工な容姿や、劣った能力を比較した事。このような流れで、老醜に対する相対の美をモノに感じ、消費購買によって、一時的に自己喪失しようとするが、経験したい事に意識を向けた総量に呪われて、自己所有を感じ、連続性から落下する。これは一重に包括原理(精進)から離れているからである。

このように、生産関係から切り離されて、世界に対して関係付け始めた人達の空間は、既に存在が逆転されて長く、怖い事と怖くない事、勤務日と休日、好きなものの為の仕事(嫌いなこと)、好きな人と嫌いな人、かっこいい事と、かっこよくない事、強気な人と、弱気な人が性格として存在しているという認識の中で日常を生きている。

彼らに抽象的な体感が全く存在していないと一気に言うことは出来ないが、絶望的な体感をデフォルトにして、異性の表情やスケベ、消費購買によって、全体性をいくらか回復する為に、仕事(お金稼ぎ)に嫌々勤しんでいる日常的な体感が、洗脳、イデオロギーである事を彼らは体感(経験を経験たらしめる力、カルマの作用)でも、あるいは頭脳(論理的思考、ジュニアーナの作用)でも、理解する事が難しい。

故に、節度と戒律を設けて、脱洗脳を試みるのである。

本気で打ち込んで努力して来た経験が、人生に数年でもあれば、話は違うが、打ち込む事を回避する事自体を、得な事と定義して打算的に生きている彼らは、自分の存在(感情や振る舞いや発言)が仮の臨場感、イデオロギーの一種(洗脳)である事が記されている学問文献に触れても尚、分からない。

先程の例の、物(オフィス)に愛著しては小我は存在として浮き出て肥大するが、打ち込んだ空間においては小我は純粋に愛情を体感する。

私は打ち込んでいる空間、大阪堂島の小さなオフィスに、冬の日の敷台や、鉄と汗の香りのするガレージに掛かるサンドバッグを経験するが、このノスタルジーという連続性(死)に干渉する、人達等の非連続性(行為)の作用に対して、エロティシズム(禁止を保ちたい、戻りたいという衝動)がいかんなく発揮されるとき、通俗的な株式会社として期待される成果は、むしろ通俗的な評価の基準を超える結果で現象化される。
それは元より、団体性(国家、家族、友人という連続性)の中に株式会社という仮設があるからである。

生理的な作用との連環が成立している大企業のエンジニアリング資本の経営形態というのは、個人主義的なサービスより原理原則の人の生理(モノ)と社会(モノ)との間の働きの経営側の理解と流通(資本共有(オーナーが沢山いる。)の理解であるが、その達成は収益の大小に関わらず、生産関係の中盤である。

また、その中盤の達成を未来に置いて、未来の為に行動スケジュールが決定される行為と、現状自分が置かれているシチュエーションから生産性を包括して体験してゆく非行為(精進)があり、聖俗の分かれ目はここにある。

年収数千万円を目的にして愛著するのと、精進の継続によって生産性を深め、結果的に収益(物の働きのラインのお金や、非行為的経験)を高めるのは異なるのである。

宗教者や整合性を表現しようとするアーティストと、資本共有の元で流通を理解する俗的な経営者の違いはここにあり、経営者は宗教者の下位互換であり、宗教者と経営者の間、つまり宗教の倫理感から生起する憲法(社会の生産元)から社会(労働と人と物)という概念(社会を発足地点にすれば共産主義)より、経営者(肉体的原理欲求(モノ)と物理の間(トイレ)の流通の理解)(あるいはベンチャー的な個人主義者の体感の俯瞰、SNS等)は下位互換であるが、個人主義的体感より上位互換である。

私の日常の執筆(非行為)と団体の経営(非行為)は生産関係に沿って一本の線と成り始め、常時的な作業や臨時的な作業は生産関係の理解の中で仕合せられて、基本的に目的論的見地から外れる事はなく、節度、戒律で間に合わない小社会内の一時的なあべこべとの干渉によって直線のおおよそ下4割程が、曲線のように乱れる時もあるが、あべこべ(悪業)と干渉した後の良質な日本酒(物理作用による回帰)と妻のあて、ボクシング(物理作用による最低保証)が、その線の下位によって最低保証として機能しており、妻と友人達の空間が、あべこべよりも遥かに禁止の抽象度が高い為、あべこべは私の中で消費される事なく、再び禁止を設けようと働き掛ける事が出来るのだ。戦争とはミサイルの打ち込み合いに限らず、このように人々の日常的に起きているものである。

自己を禁止位置に置き、自己から事物への関係付ける癖、その確定を促す植民地の定着論理(ヒューマニズム)は、生産諸関係の意味は分からないまま、自己の外側のかっこ良さそうな経営者(違反快楽)という響きと、遠くの存在の政治家さん(禁止を高めていない事による非当事者意識、無関心)と、著名なアーティスト(自己のコンプレックスの状態によって賞賛するかどうかを決める対象)と、外人や古い事が好きな日本人が信じている宗教(テクノロジーの逆っぽい事)とが、バラバラに実態性を持って世の中(認識)に生起している。この白痴層が現代の日本社会でマジョリティである事を洗脳と言わずして、現実(歴史や文化という時間)を語る事は出来ない。

これは、そうさせられた事をきっかけに癖づいている社会的な風潮であり、この風潮は人間が「生きる(抽象的な連続性を元にこの世の体感)」(仕合せ、幸せ)を実感する上で、最大の悪の働きである。

もっぱら関係付けさせる、作為的な生の論理によって、障害者や、同性愛者を残酷にも広告にして(どれだけそれぞれの禁止位置が異なろうが、自己の禁止位置が最も高い禁止位置であるという広告を見せて)、人それぞれの経験の定義を外面的に規定し、平等という言葉で全体主義(洗脳、量産化)を促す、植民地の定着論理(ヒューマニズム)と、共産主義的な役員と非雇用者が分離されたエンジニアリング資本の会社の労働基準その他、社会モラルを駆使した従業員の定着の論理(全体主義、量産化)は当然同一であり、この対立構造は支配する側も、洗脳される側も同様に生産関係から追放されるのである。この雇用者と被雇用者の対立構造によって、お互いに勤務(禁止)に対してプライベートが違反の役割を担うハメになっている。これでは、快楽を成就しようがないのである。

自然総体の生産関係への仕合せ、即ち人間性の回復、即ち個人の禁止位置からの脱却は、本来は物理的な政治形態が担い、高い禁止位置を憲法によって制定し、そのまま労働(その最も高い禁止位置、抽象性とモノとの間の繋がり)が振る舞われるはずであるが、その最も高い禁止位置が解体され、最も高い禁止位置を守る為の物理的範疇の戻る暴力(軍隊)が解体され、個人が禁止位置として適切であると街中に広告が流れるのであれば、私の経営している株式会社は、団体性に向かわなければ、仕合いようが無いのである。もし向かわなければ必ず、自己の禁止位置でしか生活出来ず、自然に他者が関係付けられ、自分の優位性の分散化された快楽が漂うのは目に見えている。

個々人の併存的空間の問題の解決とは、憲法の自然性の回復と、それに連環する物理的な政治形態の解決と時間の経過によって、大幅に解決するのである。解決されれば、誰に指図される訳でもなく、周囲がしているからしているのでもなく、自然に朝、神棚に祈り、懸命に働き、既に高い禁止位置に根付いた家族が、強力な反ヒューマニズム的祝祭で更に死を捉え直し、家族の病の縁では、いくばくかの形(個人)への愛著の分、涙を流し、旅立ち(連続性へ戻る)を讃える。

感謝を感じない1日や、国(精神概念における国、団体性の意味における友人、家族)と連らない労働や、悪業との干渉で汚れた分は、文化の中的生活態度で清め直す。


がんばらず悪業に負けた陰キャラの個人主義は、旅行かパーティか消費購買でいくらか全体性を回復しようとする。個人に最も高い禁止位置を設置して、仕事を嫌々して全体に迷惑を掛ける。これによって常時的に管理する必要がある。先輩や同僚、後輩に対して、なんら罪の体験や責任を随伴せず、個人の勤務だと勘違いしている。

個人主義者が自らの性格(傾向)がイデオロギーの一種であると気付かないまま、老醜に近接した際に獲得を放棄して帰結するボランティア(俗的な横一直線の社会貢献の全体性の回復)の論理とは、老醜による醜さと、経験的な獲得論理の醜さの理解によって、ヒューマニズムから共産主義(社会性)的体感への回帰であるが、個人主義者が消費購買と異性の表情で全体性を回帰するレベル感から、老醜によってボランティアの論理に帰結する全体性の回復程度で人生を締め括る事の原因は、植民地支配後(バラけさせられた後)青年期に何事にも打ち込まず、打ち込める環境に感謝もせずに生きた事にあるだろう。打ち込んでいないから、ノスタルジーを感じる事が出来ない。

生が初発であるというヒューマニズムの論理によって、文化的態度(時間の持続性)をバラし、人々は精進の対にあたる怠け癖がついた。個人から検討しているのでそれが損得において合理的だと錯覚したのだ。本来の禁止を高める働き、精進の延長線上の連続性の生産主体の絶対化は、変な事とされた。

天皇陛下は、人間なんだから一緒であって、先輩は人間なんだから一緒であって、夫婦は人間なんだから一緒であるだろうというリベラルの論理は政策(イデオロギー)であって、自然総体の生産関係に全く仕合っていない。女系天皇に対する議論や、夫婦別姓に対する議論が、意見と意見との間の対立ではない事が、現代の聴衆者は体感的に理解が出来ない。量産化された後なので、古い、新しいの進歩主義的な考えで止まる。そうなると共産主義的な体感にさえ、老醜に接しでもしない限り、向かわないのである。

老人になっても尚、比較して獲得しようとする人間が増えた、もはや個人主義の更に下位互換、超個人主義とも言える人格教の信者は、植民地支配というある種の保護によって助長されて来てしまったのである。

個人主義と比較して、一定の頭脳の上で、一定の全体性を回復を試みる共産主義の、集団あるいは個人で発揮される革命の論理とは、既に正規のエロティシズムに還元されたものであり、猥褻であやふやな個性の干渉に対する禁止を元にした瞬発的、あるいは継続的な拒絶であるが、禁止は違反を目的にしたものであるか、禁止と違反というのは禁止の中で同一であるかという点が、最後宗教(神)と哲学(社会)の狭間であり、これが文学界におけるジョルジュバタイユと三島由紀夫のエロティシズム理解の微差であろう。

禁止を禁止のままに到達させようとするアブラハム系宗教や仏教、ヒンドュー教の戒律の方向性は、どれほど落ち度を探そうとしても、やはり正しい。「禁止と快楽は禁止のままで比例する」は正しい。「禁止を破った事による違反が快楽として保証される。」というのは哲学形態(少し具体性)に近づいている。(もっとも個人主義者は快楽が禁止に基づかず、快楽の定量が同一で外側に実態性を持って存在していると認識して貪るから現実の生産関係とのギャップで苦しむ)

普通の人達であろうとする、我々堂島共栄会は、保守的体感を持つ現代人の少数派にとっては、可能性を感じる小団体であり、ヒューマニズムに洗脳された者にとっては、憎たらしい程、論理的、活動的な団体で、過去のコンプレックスが刺激される嫌悪な空間だろうが、小団体でカースト(節度)が、教学(生産関係の理解)が機能しているのであれば、大団体(国家)で、天皇と学問教育が復興されれば、現代社会の全体性の回復の論理が、ポルノと微妙な下位エロティシズム(愛著もあるような恋愛)に限定されている部分はかなり引き戻されて、共同体意識(家族意識)の中で、最低限が下位エロティシズム(愛著の少ない恋愛)までいくのではないか。全体性、即ち人間性が回復されるのではないかと、私は考える訳です。

がむしゃら、個人的精進、非行為的な精進、共同体意識の順番です。具体性のエロは抽象的なエロティシズムに向かいフィリア(家族、友人)に入る。
自分の周辺の共同体意識の復興とその作業の進みによって、モノと摩擦なく関われるのは明白であり、教学によって学問を伝え、精進に仕えて全体性を回復した者達が、数的有利に立ち、陰キャラ(個人主義者)の怠惰をアトマスフィアによって矯正し、リクルートされる者が陰キャラ要素(悪業)を布施し清めれるように、適格に節度を設けておく。
リクルートの母数(個人主義社会からの仕入れ)に真摯に対応し、社内独立者や役職者が節度と教学を理解して、表現として必ずバイブレーションを駆使する事で、個人主義社会から仕入れは個人主義的要素を自認する者が増え、人々ががんばり始める。チームワークが生まれ始め、最終的に時間性を共有する共同体意識が復興するのである。
この一連の流れにおいて、団体性の物理的な政治形態にあたる委員と社内独立者と役職者が現象欲的、猥褻的でない事が極めて重要であるが、個人主義者にインセンティブに乗っけて事業等を仕入れる瞬間では、そこに人が付いて来る以上はあり得る。

その場合は他社内独立者、あるいは他役職者が、カースト尊重に基づきながら、猥褻者を矯正する。

精進によって全体が全体性を回復し始めれば、団体の資本と団体幹部の資本は潤沢である状態になり、集団性が団体性になった事を確信したタイミングで、反ヒューマニズム的な祝祭を設置する事で、カオスティックに近いレベルでの全体性を更に捉え直させて、最も強い共同体意識に帰る。
その段階では、人々はその祝祭に怯えない。率先するはずである。

アートとは本来こういうものであり、音楽や絵画、映画に区切り、それらバラバラなもので断片的に連続性を実感する事では当然完成しないし、体感は成就しない。