本屋やyoutube、ちまたでは様々な思想を紹介している。


読者(視聴者)は、分かり易く発信された内容を聞いて、知識をつけたと思う。


しかし、短く具体的で分かり易い内容だと、読者(視聴者)はその思想の外観、つまり形式的な知識を付け得るだけで、その思想の内容を体感として代理経験する事は出来ない。


優秀な思想家の人達は、そのような消費者用のメディアコンテンツで簡易的に説明されている事自体、気に入らないだろう。


諸学問というのは、大前提として個人的な思考が湧き出る前の生産関係、あるいは個人そのものの生産関係を正確に記述し、伝える試みであり、イデオロギーではない事を目的としている。


つまり優れた思想はいずれも、消費者思考的な、思想をカテゴライズし消費しようとする作用とは真逆にあたる方向に向かおうとしています。

思考と真逆の方向を読者が実際に代理経験し、日常の自分個人の行為的な経験から外れ、自分自身の生産関係に一時戻る経験が積めるのが、時代の流行り廃りを超えて評価を受け続ける優秀な学問書物です。


思想の簡易的な説明を聞いて、読者が考え方の知識が増えた一つ増えたと思っても、それは事象を切り取って固定化したに過ぎず、学問的経験(存在諸関係の体験)を養った訳ではありません。


また、学問がジャンル分けされて、解説書になる(レシ化する)事自体が個人主義の政治に根差しています。

学校教育で、思想や道徳教育を本格的に取り扱う事なく、資本主義のサービスの供給者側に読者の好奇心の範疇に合わせて思想が紹介されれば、当然それはカテゴリーとして考えられてしまうのです。


例えば東洋思想はこうですよとか、西洋思想はこうですよ、経営者の思想はこうですよと言っても、そのように解説をするという発足地点に立つ事が、そもそも個人がどのように考えるかを優先した個人主義的な体感、そのような政治に根差した一時の社会的風潮である事を知らない事は、優秀な思想家が外的な思考ではなく、その深部の説明を試みている事の理解という観点から見ると、とても悲しい事だと言えます。


個人の思考と優秀な思想学問を混同してしまうと、学問よりメディアで活躍するタレントや器用に見える会社の先輩の、世俗的、世渡り的な秀逸さに関心を寄せたりしてしまいます。


学問から離れると、瞑想力(解釈や通俗性に惑わされず、物事をノーマルに経験する能力。例えば職業観念より性欲の方が根本的だろう、でも労働は性欲を包括しているかも知らない)に乏しければ、社会的な潮流という名の洗脳に支配されて、異性、友人、家族の関係に入ってゆく事は極めて難しくなります。


昨今、日本のニュース番組で現代の若者は五行以上の文章が読めなくなってきているというのが社会現象だと取り沙汰され始めていますが、そういう人間が若者に限るのかどうかは別として、そのニュースの内容は正しいと感じます。


彼らのようなは人間は、内容で体験せず、文章の言葉の形態に必ず囚われる。つまり文章に限らず、経済活動や人間関係において、世の中に具体性を随伴して、立て続けに途切れる事なく、認識しているのです。


逆に分かる者は、文献の内容そのものに入る事が出来ます。

文章の内容に包括されて、単語の持つ形態が仮に存在する事を日常の瞑想経験から知っているからです。


形態というのは、必ず内容に包括されます。分かり易く言えば、形態が西洋科学全般で、内容というのが宗教(その他諸文学や詩)です。


例えば、ボクシングにおいて、形態というのが、拳の動きの測定だとすれば、運動というのが内容です。


また、昨今では理論物理学や量子力学の発展によって、宗教と科学が近接していると言われているが、そもそも内容から形式がある訳だから、近接も何も、マクロな視点(体感)でそのまま物事を捉えているか、あるいは思考によって具体的に捉えるかの違いで、具体的に捉える事は、きっちりしてそうだから、正しそうと思っているだけで、全ての存在の順序とはコト(抽象事案)からモノ(具体事案)に流れています。


誤解を恐れずにはっきり言えば、宗教が正しいです。それも、どの宗教がという特定はなく、まず宗教=内容に即すという事がその時点で、他(区切られた現象形態の解析)よりも正しい。

正しいと言える理由は、それが個人が選択し解析する正しさではなく、選択に至る前段階の生産関係(内容)に帰する事だからです。


親に言われた言葉の、その口から出た振動の働きという具体性より、親に言われた言葉というコトの方が、私達は先行して存在を体感しています。


あと、なんというか知識の問題として、かなりレベルを下げて話せば、植民地化後の日本人の非常に多くの人は、世界中のほぼ全ての哲学書が(ほぼというのは9割以上)が神の証明論理か、あるいは、ギリギリで神をかわすかのような内容である事を単純に知りません。つまり外国に住む国民が思うような「科学を包括する偉大な内容そうだとは思うけど、私は深く理解出来ないよ」とは、この国日本に住む国民の宗教に対する認識は異なります。

ここ数十年の日本人は「科学(西洋近代的な意味の科学)が発展し来たから、宗教はいい加減だと思う」になっています。



日本は敗戦後、他国の宗教に代わっていた抽象性を帯びた天皇が人間宣言その他の植民地政策によって剥ぎ取られ、個人主義を念頭に置いて、報道や教育機関等の諸々の民営化によってエンタメ要素は強くなり、民間人は諸宗教や諸文学が、誰かの行為的な創作物、作品だと思いながら、アニメ等のサブカルチャーが宗教の代役を担った。


このような、完全に生産関係から切り離されている社会的風潮の国数に関して、諸説あるが、いずれの説も数カ国程度のみとされており、日本においてはこのような社会的風潮になった最も重要なポイントは、約80年前、敗戦後のGHQ植民地政策の影響であるのが歴史の上の事実です。



また、形態即内容と考えるのが共産主義者であるが、これは個人の発足地点から横一列に計算されている論理であり、個人の生産関係諸関係というのは、個人が感受するもので、そこは物質として平等だと考える。このようなマテリアルな形態即内容と考えるのは、考えているからである。(※共産主義の形態即内容と般若心経の色即是空、空即是色は異なる。)




まとめると

①伝統、文化、節度(家族等の自分を包括する抽象点(内容))が先行して自己という発足地点に立っていると体感している者


②そういった流れは個人が関係付けているだけだから、個人は形態と即ちではないかと定義する者。


③上記の①、②はその人の興味でしょうと思う者。(学問を体感(内容)の存在諸関係と感じておらず、勉強だと思ってる。)


この①〜③の構成で世の中はおおまかに組織されている。

①と②は共に③が大嫌い。(右翼、保守、共産主義者は、個人主義(リベラル)の被洗脳民が大嫌い)

②は①は体感ではなく個人の想像だと捉えて、②が合理的だとする。この私や実社会に出発地点の実態性を持たせる。

③は、それら①②は存在諸関係ではなく、個人の興味でしょうと捉える。その認識が、政策による影響という自覚はない。他の人の興味だと考える。


いつの時代も、③は形態の中の更に形態に位置した体感に日常生活があるので、その時代毎の雰囲気に便乗するか、便乗しない事で自尊を得る。(いずれにせよ自己から事物に関係付ける)

②は、土着は存在しないし、そもそも土と自己は同一だと捉える。地球ないし、宇宙の並行物にこの私が存在すると考える。

①は土着的な伝統、文化からの生産諸関係のプロセスに自己が仮に存在していると体感する。


本来は①が正しい。教養→知能→知識である。

抽象経験が少なく、経験を経験たらしめる力が弱いと分からなくなる。