古典仏教、六道輪廻、善業悪業と世界の現象生起。


天、快楽の到達点、阿修羅に抽象度の高い戒律のカルマを加えた世界。(以下に内訳あり。)

阿修羅、徳が高い。高度に知性的であり、悪いカルマに対応して深い情熱がある。

人間、カルマの流れを少なからず感知する。生産関係の家族友人を若干体感する事が出来る。

餓鬼、布施的な感覚が分からない計算下手。

動物、意思なく都度の社会的習性(情報)に感情で流され易い。

地獄、嫌悪の肯定、俺潔癖だからの自尊心。



注釈

地獄、動物、餓鬼の三悪趣のカルマは、人間が近接する不幸のカルマです。三悪趣は今生でもスピード感を持って不幸として発揮されます。


日本人の場合は敗戦によって生起したサブカルチャー(アニメ等)の影響で、やたらと氾濫した地獄や天国の絵や動画を目にした事がありますが、それはイメージとして参考になる程度です。

具体的には情報のデータベースに基づいて、現象的対象事物(自己の形態を含む)がそのように形成される世界と認識した方が正確です。(誰でも考え得るようなin the boxの世界では形成されていない。)


今生における地獄のカルマとは、嫌悪を肯定し、色々と外の人にケチをつけて、自分の優れていると思えるところを相対的関係の中で探します。動物は、企業広告やテレビ等を権威として即座に見做し、それに基づいて習性的に行動します。

餓鬼は抽象度の高い計算が出来ない為、仕える事に否定的で、外側の快楽を実態視しています。

人間は既にある抽象的な流れ(文化)に根付いて正命に仕える事が出来るカルマです。労働を超える文化(家族、友人)や、精進努力をしていない人間は上の阿修羅に向かわず下の三悪趣に向かいます。阿修羅界は現代の日本仏教では、人間界より下に位置させる事が多くなりましたが、実際には仏典に記述されている通り、人間より上です。阿修羅は人間よりもエゴが少ないながらも、少量残っており、知性的で天界に向かう過程で闘争的です。天界は輪廻の中で、最も因果関係を辿る事が出来ています。しかし無常の輪廻の中の世界なので、仏教においては本格的には否定されます。


また、天には分類があり四天王と呼びます。(よくお寺で、像が置かれています。)

持国天(国家の理解(人工的なものを規制する歴史)と、その国家に対しての布施を施した徳ある人が向かう世界)、毘沙門天(悪いカルマの働きとの戦闘に置いて諦めず、徳を積んだ人が行く世界)、広目天(非感情的で情緒的な徳の高い人が向かう、人間界の天候の因果にあたる現象世界。)増長天(動物、人間のカルマに強く干渉し、良質に更新した者がゆく守護の世界)


釈迦は六道輪廻の存在を肯定しましたが、そこから解脱する事が可能であると説きました。六道輪廻は仮の存在(ステップ)であり、天や阿修羅の神々もカルマの流れの中(生産主体からの放射の中)に抱合されている通過点であるとし、ニルヴァーナのプロセスを説いた事で、そこに諸学者が集まり仏教集団が出来たのです。

ニルヴァーナに到達する為には、通常何生にも渡って徳の高いカルマを貯蔵する必要があるとされます。


まとめると、阿修羅が個人主義的精進で、第一天界が団体性(友人家族国家)の中に体感として個人が抱合されている非個人的な精進努力、正念に向かうカルマと言えましょう。

正定の段階においては、このような宗教的な生産関係を説く活字に臨場感は沸かず、体感で辿る事が出来る準備が整っている状態です。


また、私の個人的な瞑想経験から言うと、悪業は現象として出しきった方が良い。毒素を出すような感じです。その発現のタイミングは個人的な意思ではどうにもなりませんが、積んだ悪業を苦しみが消化する(現象は時間差で生起する)というシステムにだけでも悟りを得れば、我々は抽象度の高い生産を引き上げる事に燃える事の人生になり、最低限度の徳が保証されます。ここに人生の冒険、楽しみが生まれます。ちなみに明らかな善業の現象生起が訪れても、それに必ず愛著してはなりません。そのまま生産位置を引き上げる必要があります。


あと、言葉と態度に必ず人格は流れます。併存的な空間に閉じ込められて三悪趣を積んでいる人は、正統な意味での負けず嫌いになれば良い。そのように日常的に立ち振る舞えば良い。振る舞いをこの私に見せて、この私を変えてゆく。このようなカルマヨーガは絶対外す事は出来ません。しかしヨガの行法で1番手っ取り早い(スピード感がある)のはバクティヨーガです。自分の最も日常で関わる人達や、最も大切な人を覚悟を決めて、一色単に生産主体の中にまとめて、心の奥底の生産主体を信仰します。確信を持って信仰すれば、すぐに認識の抽象度は引き上がります。(ここの共有に社会形成があります。むしろ仏典や旧約聖書においては、共有されている社会それ自体が分散化されてこの世で社会として形成されています。)


また人間が感じる不安の正体とは、カルマの更新から切り離される事です。

バクティヨーガ、カルマヨーガ、ジュニアーナヨーガというのは、戦後民主主義の人にとっては、無理をするということ。

精進努力にのるカルマの更新によって一切の不安は解消され、生きる(生2割、死8割くらい)となり、幸せる。

仏陀はこれを俯瞰で見る事が出来ると説きました。