阿呆は自己から事物へ関係付けて悦楽(苦しみ)を得たりするより、空間的な全体性に向かう自己の忘却の方が得だと知らない。


中央値的な世俗層は、空間的全体性の形態化が悦び苦しみだと理解している層。


成熟している者は、時間的全体性の形態化が空間的全体性(徳の限界効用先がマインドフルネス。)だと体感しているいわゆる保守層。時間の上に跳躍的生産点を置きまくる。置きまくると、生産諸関係が事柄として分かる。


徳はリベラル的な良し悪しでは無い。段々の生産諸関係、時間的な持続である。


徳は全部の内容であるが、分からない人からすると、紐づかない跳躍点的な行いと感じる。


バカな度合いとは、現象に対する外的偶然と思ってる度合い。諸現象の一切は内的必然である。


「行い」の定義が、関係付けた先のした事であれば、生産的行い(非行為)を悟る事は無い。生産は元々在る行いに帰依しまくる事である。


執著していた突然ラインが返って来なくなったあの子からラインが返って来て発展し、一緒に風情ある旅館に泊まって語り、回復した全体性は、跳躍点に根付いて降らせる事が出来る。


跳躍点を置くと、降らせたくなくても降って来る。これを悟った後、降って来た時に触れたくないと感じた時は、本格的な全体性の回復にリーチである。これによって人は宗教を理解してゆく。


コンピューターは全体が分からないので、何かを分かるしかない。コンピューターに人が似て来るのがリベラリズムの恐怖。このような人間が子を産み、子育てをする連鎖を恐れて神風は起こった。


全体的な生産によって、空間的な現象が降って来ている事。また、全体的では無い、分かる(得る得ない)によって現象(悦楽、苦しみ)を掴んでいる事をオーガナイズして説明する学問がなんと優れている事か。



進化の正体が変化だと分からないのは、空間が先で、空間的にさせる事物が後だという事を悟っていないからである。横で追うとスポーツと、関係付けていない新しい空間と、新しいモノで空間に帰ろうとするラットレースになる。


貯蓄税、固定資産税、消費税等のあらゆる税金、預金や不動産に掛かる税金、買ったものが腐ったり、価値が下がったりする。停滞は存在しておらず、生産に対して消費(形態化)されているからなだけである。知性と思考の関係も同様である。


支払いがコインでなくなる事は進化では無く変化。諸現象の一才は常に生産による消費の流れに立脚している。



視覚によってマインドフルネスになるのなら、やはり感覚はモノ的導通である。幸福が視覚優位で無い事は誠に幸運である。行いの投資性を高めまくったらその果報は寝て待っても返って来る。しかし、その他の行いの投資性を高めまくるには、寝る時間以外は寝ずに行いの投資性をするよう心掛けた方が良い。



何もかも分からない時、つまり先のラインが返って来た異性との旅行の全体性の回復を実態と見る場合。このような生産関係の下段に位置している際は、異性関係や従業員関係や家族関係に対して思いつく限りの跳躍点を置きまくる事で分かって来る。なんか落ちて来るからだ。


経済学っていうのは、みんな真剣にふざけているから面白い。経済学者の一定数が経済学的な生産と消費が、全的な生産と消費の内にある事を論理であると悟る事は、悦楽的、空間調和的な社交を売りとする水商売の人間が、経営者の人間が、悦楽や空間導通で人は維持できない事を悟るのと似ている。


古代から言われる神への供物って言葉は真理を的確に突いている。神(跳躍点的抽象性)への供物によって幸福が訪れるなんて、ダイレクト過ぎて勘繰ってしまう。もっとも、現在の神は現象的実態(先のラインが返って来た女との旅館)になるので、神の定義から直さなくてはならない。


生物多様性って言葉でなんとかやりきろうとしても、分かる人にはバレてしまう。気づいた側から報いを受けるというよりもむしろ、気づかせまいとした事の返しを受ける。


物理で素粒子やってギリギリを突き詰めると横の時間がいらん事に気付くというのが空間教の始まりだ。あの女の好きな色の薔薇を買いに行ったから、シチュエーションが先だって事に後年になって気付く。


女は自分の美を客体で見ている事を男は知らないから、美を振り撒いていると思って憤慨したり、得ようとしたりする。美は当人と自分との間にある媒介物である。


男が生産を形態の論理に結びつけようとする肉体的硬さの悪しき習性を女は分からない。だから無理に形態の論理を支援して男をドツボにハマらせる。作品と現実を分け始めて、現実の異性関係に職業観念が生起する。


人間は全的である時に、元々共通の外敵がある。それは飢餓、強い風、強い雨等の自然災害、通り魔、快楽殺人、具体的悦楽、具体的怠惰、具体的意見、反目的的な具体内容等、つまり事柄に向かわない、具体性全般である。


次に会う人が、上記のような形態的な暴力者である場合、その原因は暴力者の両親というよりも、つまるところ憲法に立脚している。例え横の時間で農村的な過去に回帰させて癒しても、最大公約数的では無い。


空間教の信者はある程度存在している。生産共有者が数人いれば、非エンジニアリング的(モノがメインでは無い団体性)で数千人規模というのはつくれる。つくっていくと、先端部は政治形態や経済形態の先端に触れる可能性は高い。今集中する対象は深部は生産、途中は個人主義者と社会主義者のカルト宗教の人達だ。


Artificial Intelligence的な機能は共産主義的なライン迄は時間を掛ければ表現出来るようになる。元来マインドフルネスの対象だった事象の物理的生成はAIの機能に担保されるが、マインドフルネスが持続的に担保されるものではない。当然生産が担保されるものでもない。


対象の現象が独立していないと悟った時、人は生産に従事する確率は上がるのかも知れない。AIはSNSのロマン主義的、享楽的な表現以上に、形態的な現実とパラレルな空間を形成するのは間違いない。重要な事は、それが火星に移住する新しい生活と似たようなものである事だ。生産に根付かないと全体は降って来ない。


旧約聖書や古事記の順々の関係を横に見て、イエスキリストが、あるいは天照大神が生産関係を担わないという論理は、あなたのおばあちゃん(お母さん)は元を辿れば、ひいおばあちゃんに立脚するからひいおばあちゃんが全体だと言っている事と同じ。進化論(未来)的な左翼主義者は全体を悟る者に打ち負かされるといつも、過去の過去の論理に寄る。その形態的な思考(猥褻さ)を辞めると決断するべきだ。薔薇の花を買いに行ってもモテない。シチュエーションに立脚する。全空間的なシチュエーションは生産によって降って来ている。


天照大神が中世以降に大日如来(ヒンドュー教のブラフマー神)と同一視されていたとしても、生産はそこにある。文化を悟るという事はこういう事。



遠慮のあるものを臆病と見て、軽躁なるものを勇剛と見ることが愚かさだ。それらに習うと人生は形態化してゆく。


状態が悪い時とは、モチベーションが上がっている時と下がっている時。モチベーションが下がる理由は、モチベーションが上がったから。事柄を見続けて、それに即して言葉と行動を整える。


愚かな人は事物を利用してマインドフルネスに向かう。賢い人は徳を積んで、マインドフルネスを降らす。