私が10年以上経営して来て分かった事は、経営者になりたがっている人は実社会で苦しんでいるという事。


向き合うべき現状の生産関係にいわゆる「夢」「目的」(ここに経営者)と呼ばれる抽象的な体感が有れば、それは正しい。



しかし、向き合うべき現状から生産関係に入ってゆくのではなく、現状の外に「夢」「目的」を置いてしまう癖のある人は、間違っているし、現状に苦しんでいる。



生産関係(夢、目的)に入ってゆきたいのと、外側に夢、目的を置いて追いかけたいのは真っ向から異なる。



俗語の「イキり」というのは、外側に夢、目的、悦びを置いて、背伸びをし、悦んだり苦しんだりしている事。



カッコつけて話したがるイキりも、持ち物を見せびらかしたがるイキりも、自分のキャラクターを知ってもらおうとするイキりも、苦しんでいる。


異性の前、後輩の前でイキって、現実社会で苦しんでいる。たまに悦びながら。



イキりはいつも何か探している。




人間は、頑張って充実し、今に満足していれば探す必要はない。そのまま頑張るを継続して縁を大切にしていれば、冒険になり快活である。



しかし、イキりは探している。

何を探しているかと言うと苦しみを探している。



いいえ、私は幸せを探している。

しかし探していることは苦しみである。



探す事が苦しみ。これが100%絶対だと確定していない。

日常的にこれが確定されていない。



確定されていない理由は、日常的に体感する悦び、苦しみ、仕合せ、感謝の因果関係を、因へ、因へと向かって観察していないからである。



どれだけ個人主義的な社会に生かされても、楽しかった時を思い出せば、何も探していない瞬間である。


今に集中している時である。今に集中するを長続きさせるには作業の進みを見る必要がある。


物質に対して、物質的な繋がりだけで集中する事は難しい。


今に集中するには全体的な作業の進みを見る必要がある。



イキりは知らない。

仕合せるのが上手い人は、探していない瞬間が継続していることを知らない。



自分が探しがちな習慣がある人間なだけという事を知らない。



生産関係を辿っていくと感謝がかなり増える。


苦しみの原因は

「金で買うサービスと物を探しているのが苦しみであると知らないこと」


金がなくなる事に危険を感じない生活を送る。節約や精進は仕合せである。


節約は悦びと嫌悪から離れる事が出来る。


私達は、幸福を探してサービス(特に個人的な悦び系のサービス)を買っているとき、必ず苦しみを買っている。


節約し、家を綺麗にして、精進する。



苦しみの原因は「頑張らない事」


金で幸福を掴もうとしてサービス、商品を購入するのは苦しみである。


しかし、購入した清潔な衣服の取り替えや等は、部屋を綺麗にする掃除と同義で、自分がモノとして連環する事が出来ているので、仕合せである。また金の道具としての積極的な使用(抽象度の高い使用)は仕合せである。



金の個人的な使用は苦しみであり、道具としての使用はモノと自己(物理的な人体)を導通させ仕合せ、更に抽象度の高いクリエイティブな金の使用は自己の精進の生産位置を引き上げるのに役立つ。



また金の他に、もっとも日常的に使用する道具に携帯電話がある。



携帯電話は、回覧板であり、作業台であり、筆であり、紙であり、会話をする公園である。


精進の中で、道具を道具として積極的に認めて、他と連環する事で仕合せる。



自分が悦びを取れる可能性のある都合の良い時だけ携帯を触らない。

都合の良い時だけ知人に返信をしたりしない。


日常的に仕合せる。


仕事(事に仕える)を理解して、携帯の中身を常に綺麗に整える。



携帯の中に入っている様々なタスク、役割を理解して、すぐに対応し、取り組む。


携帯に対する取り組みが、部屋を綺麗にする仕合せより勝るのは、部屋よりもモノや抽象性との連環量が多いからである。でも部屋も綺麗にした方が良い。お金を持っても、クリエイティブな生産活動で掃除が出来ないくらい忙しくなる迄は、家政婦を雇わず自分で綺麗にした方が得である。


俗に言うプライベート、仕事どちらも取り組み仕合せる。


すぐにスケジュール管理する。すぐにスケジュールに取り掛かる。すぐに返信する。それが自分の嫌悪の対象でもそれは自分の経験の構成であるから、すぐに対応する。



しかし、問題を外にどかす為に、スケジュールに取り掛かったり、知人の返信をしてはならない。

解決するよう内容に入って精進し、取り組む。



親に感謝しない。仕事(役割)に感謝しない。このように自分の生産関係にロジックとして体感に理解がなければ、色々アベコベになる。


人が付いて来ない人間は、目の前の道具、携帯(回覧板、作業台、筆、紙、公園)を敵にする。敵にして嫌悪すれば、当然たまに敵がいなくなるので、悦びも出る。悦びは苦しみに立脚している。



携帯は敵でもなければ、悦びが内蔵されたりもしていない。


新しい携帯を買って、なんとなくハッピーになるのは、普段自分を主人公にして悦びを貪って、苦しみをデフォルトにしている状態で、自己というイマージュから、モノとの導通というファクト迄、生産関係を回復しているからである。新しい服を買ったり、掃除したりしているのと同じ作用である。


携帯は道具として仕合せるものである。生産関係の深部を目的にして、仕合せるに必要な道具であり、感謝の対象である。



本来、日常で感情の精密な観察をしていれば、このような文章で「確かに」と納得する事自体ない。


しかしインターネットや街中の広告に洗脳され易い人は観察をしない。


生産関係を見ないから、悦びや嫌悪が固定的だと感じる。メンヘラの女が、DVの彼氏を怖がり、別れ際には彼氏が優しくなる事を、優しかったり、怖かったりする人と感じているのと同じである。


洞察というのは精密でなければならない。


生産関係の中で、道具を積極使用する事でのみ、仕合せる。


携帯を敵か悦びと認識して携帯に支配される愚か者にならず、携帯電話の支配者となれ。


イキりは携帯(道具)に持たれる、道具に持たれるな。