投げられた石(物質存在)にとって、上がっていく事がいい事でもないし、落ちていく事が、悪い事でもない。
存在的、存在論的に優位性を持つのは、解釈(行為)による有る、無いではない。存在的、存在論的に優位性を持つのは、抽象性(コト)である。
我々が、言葉に定義を持たせず、日常的に体感する「頑張る」というコトは明らかに眼前の特定の物質の獲得を主人公にした具体性ではなく、それらを包括する抽象性である事が分かるが、この抽象性に正しく仕えている時は、野心による猥褻な悦びを体感しないし、無駄な労働をしているという体感を持たない。
体感としては、謙虚で、実践的で、肉体疲労に充足感を纏い、自然に尊厳の布施がなされている状態である。
「頑張る」という事は、明らかに功徳を積む非行為であり、仏典に記載されている八正道の精進の段階である。
精進の段階というのは、誰でも通る。
精進の段階を通る以前には、悦びを獲得しようと、自分のキャラ付け(ボディランゲージや、アクセント、ワード、話してる内容等を着飾り)を猥褻に周囲に、または自分に露出するが、それによって獲得する悦びと、獲得出来なかった苦しみの関係というのは、苦しみがデフォルトである。
物質的な思考による解釈によって、自分が社会的、人間関係的に上がっていったり、落ちていったりしているとすると解釈するのは、まやかしであり、精進(頑張る)に努め励む事で本来的な抽象性を帯びた、もどってゆく変化(成長する変化)を体感に持つ。
この本来的な変化に沿って心は納まり、幸福を体感してゆく。
この継続のプロセス上に状態としてあるのが仏典その他に記載のある正念の状態であり、近代西欧で学問的に理解され始めたマインドフルネスの強度と時間の増大である。
正しい精進がなされているかどうかの観察方法は、精進の狭間にある、閑暇がきちんと働いているか。精進だと思っていた活動の後、閑暇ではなく経験したい事に意識を向けて、時間を消耗している状態になっていないか。
私達が幸福感を持って生きる為に普段するべ事というのは、体感的な抽象性を引き上げる事。
体感的な抽象性を引き上げるには、第一に頑張る事。
頑張るとは、端的に言えば「タスク(物事)をスケジューリングして実行し、恐れずに人との関係に入って自分の出来る事をしてゆき、寝入る時間を必ず決めること。」
「頑張る事」の強度によって日常的なマインドフルネスの体感を経てきた頃に、より抽象性を引き上げる為に普段するべき事の第二を体感的に掴む事が出来る。
第二は自分という個体を離れた抽象性に仕える事。
自分という個体を離れた抽象性に仕えるとは
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家族に仕える事、チームに仕える事、友人に仕える事、上下関係に仕える事、1日5分の座禅を組む事。
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