I  仕合わせとは、文化時間(全体時間)を生きて、進み(成長)を実感する事。

II ヒマ潰しとは、近代時間(ヨコの時間)を生きて、進み(変化)を実感する事。

III 不幸とは、悦楽、怠惰(測量時間)を生きて、量を実感する事。

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近代時間(ヨコの時間)は空間を定義する事で生起する。ビッグバン宇宙(全体)があって地球(小全体)があって、地球の中に自己(この全体)がある。リベラリズムの風潮はこれに基づいている。

位置(自己)は他の位置(他者)と空間的に調和する事を目的として、空間内部の悦楽(苦しみ)は十人十色の保管されるべき個性なので、空間前提的に尊重するのがモラルである。


実際はモラル(道徳)とはそんなに陳腐ではない。


空間内のパート(部分)が無常である事は誰でも分かる。だから空間教が出て来る。(コップの中のお湯が冷めているのを見てても楽しくないから、パーティー(飲み会)やビデオゲーム等の「責任、役割」を基準にした自己を空間に還元するあらゆる労働に従事する。


しかし空間自体が無常である。空間はそれ自体で生起していない。

実際は空間と呼ばれるものは持続である。時間(生産)に基づいて持続(生産の形態化)が在る。


空間教の信者は、恐竜やアウストラロピテクスの化石の発掘が、ヨコの時間(過去→未来進化)の根拠と見なしている。ヨコの時間で過去から未来へ向かう者達(進化論者、社会主義者)の誕生である。(新型が変化ではなく、進化だと考えている人)

進化論者はヨコの時間の未来(関係付けていない抽象未来)から逆算して動く。現代で最も流行しているカルト宗教(コロニー統治の政治プログラム。欧米式植民地システム、敗戦後の日本人)である。


空間が全体だと誤って定義した事で、空間内部の位置(自己)から位置(事物)に関係付けて、悦楽と苦しみを測量して、不幸を感じたら未だ関係付けていない位置(空間を感じれる新しさ)に移動するを繰り返しているが、新鮮さが生産の形態化(爽快さ)である事を観測していないので、生産をせずに、位置を変化させて一時的なヒマ潰し(爽快さ)にふける。それ以外では、測量して不幸せを実感している。


生産とは時間であり、時間とは文化である。空間と呼ばれている観念は、時間(文化的生産)の後の持続である。


空間教は誤り。時間(生産)に支えられた持続を、閉じられた空間だと誤って定義した事によって生起する観念なので、実際は「今(持続)」だけが在る。(漂って在る)

だから地面を掘ったら当然化石は今の持続(空間とされる現状)の中で出て来る。


生産に基づいて持続の無常が在る。

諸々の行い(生産)の持続は無常であるという事。「諸行無常」である。


よって私達は持続の中で、国も会社も友人も家族も生産によって、再生される事実を目の当たりにしている。私達は本質的に不死である。


食べ過ぎても、食べなさ過ぎてもダメな中庸の生活によって今(この私と事物というトータルの現象、持続)が整う理由は、有る無いという事を空じた先、元々在る生産(時間)によって持続が生起しているからである。


有る無いに捉われず、物事を空じて、全的に(最大公約数的に)がんばっている人が幸せて、有る無いという空間内の測量を続ける人が不幸になる理由である。


人体、金、モノ(資本)の回転の中で、行いの投資先が、ヨコの時間の未来空間になっている事は病である。新しさ(未だ関係付けていない空間)に移動し、無常の中で横にスライドして暇つぶしをして、スライド出来ていない時は空間内部に関係付けて測量結果を貪る事が不幸の正体。


生物学は全体ではない。空間内部の位置の構造の記録である。


物理学は全体ではない。空間内部の位置から位置の関係の測量結果である。


西洋近代科学は全体では無い。閉じられた空間を前提に出発して空間内部を掌握する観測結果の全体である。


リベラリズムは誤りである。

持続が生産に基づいている事を知らないので、閉じられた持続(空間)に向かって、位置から位置、位置から位置を全部連環させて空間的に尊重させる。(共在空間の経験なので、尊重した直後から形態化する。双方の心が満たされずに、新鮮さに依存する理由。)


然るに発明に基づく一切は誤りである。

既に在る段々の生産諸関係に向かう事。正しいのは、仏教、古事記、アブラハム系宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)、ヒンドュー教、儒教に基づく文化的生産態度全般である。(この保守と呼ばれる政治形態が世界では多数派であるが、現代日本は第二次世界大戦以降、空間前提に憲法その他が定義された。)


膨大な生産が形態化された事で生起する「今」という持続(識別、位置(自己)と周囲の現象を含めたシチュエーション)は、例え形態が朽ちても必ず、再度生産に基づいて形態化される。輪廻転生である。

ミクロな視点では(今生においては)形態的生産を行なった者にバチがあたる(形態的現象が降ってくる)という事と同じである。不死である事を悟ったあと、不死である事が問題だと分かる。


生産の高い者は段々の現象をすっかり見下ろして、生産の低い者は何も分からずに、ヨコの原因で現象が生起していると錯覚しているので、パターン的に身の振り方を覚える。暗記的なものに愛著して、生産を高める事に恐怖を感じて持続を悪くする。


悪い聞き方は暴力。悪い見方は暴力。悪い態度は暴力。悪い思いは暴力。悪い行為は暴力。タイパの全ては暴力。総じて暴力というのは形態化。経験したい事に意識を向けた全てが煩悩。(正命の完成以降、全的な精進に入る段階で煩悩即菩提を悟ってくる。じっとしているのではなく、定められた義務を成し遂げる方がよい事が分かって来る。無行為ではなく非行為によって積極的に行為を成す。)その後、段々正解が取れるようになってその後は時間的全体の意思を汲み取るようになる。


家族の縦の発展は生産です。(家族に対する責任は持続との導通です。)友人の縦の発展は生産です。(ヨコに増やす事は持続との調和です。)売上の縦の発展は生産です。(売上を横からもらう事は対立です。)位置(自己)は「私」では無い。位置の本質とは、「位置と事物(シチュエーション)」が示す生産的行いへの誘い。




ーー以下は十二支縁起ーー

無明とは、光が無いこと。智慧という語は知性と混同され誤解を招き易い。


行とは、生産深度の高い経験から、低い測量的経験までのデータ(時間)


識とは、行に基づいた識別深度。


名色とは、識別に基づいた心(情緒)と事物(肉体や事物(外的事物)


六処とは、「意+五感(六根)」と「限定空間+対象の事物(六鏡)」


触とは、その六根と六鏡の干渉。


受とは、干渉の実感。


愛とは、その実感に実態性(定量性)を認める事。


取とは、その実態性(定量性)を集めようとする事。


有とは、存在全般(生存)。


生とは、位置(自己)の確定。


老死とは、位置と外的存在(存在全般)の変化。位置は滅した後、行に基づいて有を繰り返す。



「行(文化的生産、時間的生産)」によって持続(閉じられていない空間)が変化する。

これを認識するのは「識」の作用。識の作用によって生産関係を捉えて、生産に基づいた行動が出来る。

しかし「識」は行によって生起している。つまり文化的生産、時間的生産を成した事が少なければ、生産関係を識別する事は出来ない。

よって「行い」が先行される。先に生産寄りの行いをして識別を鍛える必要がある。鍛え方は主に四つ(①世の中の一切の結果は原因があるという信仰から離れない事。)(②周囲にどう思われたい、自分で自分をどう思いたいと決してしない事。)(③ヨコにスライドして逃げずにその場のシチュエーションで生産関係に向かう精進を成す事。)(④自分の識別を超えた生産関係を遡る知性の系に訴えまくる事。)


これによってこの世のあらゆる網目(政治、経済、家族、恋人、職業)等が、段々の生産諸関係的(立体的網目)である事を認識してゆきます。これは知識的に覚える事から最も離れた全体の掌握です。