世界はモノではなく、コトで構成されている。

コトからモノが形成されている。


この事について説明を施すが、傲慢な私達というのは、思考を含むあらゆる行為に対して所有を感じる為、私の興味関心の内、外というカテゴライズの上で聞く耳を持つかどうかを習慣的に判断する。


この私と、その他様々な分野の内の一つだとカテゴライズして捉えてしまう場合には、どのようにすれば日常的に感じる苦しみを解決出来るかというエゴの視点から読み進める事が優先されるだろう。(尚、教学時は注釈者一名がつけばより良い。)


科学合理性の高い学問とされる膨大な文献資料から、歴史に淘汰されずに強い支持を受けているものから順に現時点で約6年間教学したものを謙虚心を助けにして、簡潔にまとめた。


教学内容については、自身でも実業の経営や私生活を通じて、教学の体感から非常に強い成長を実感している。


科学合理性の高いまとめられている内容というのは、私達世代が学校で教えてもらった、日本の第二次世界大戦敗戦後(GHQ介入後、象徴天皇制始動後)に次いで積極導入された西洋的自然科学(部分科学)の話ではない。


西洋的表現では、いわゆるカント以前(部分科学以前)の学問総体の話しであり、カント以降の部分科学者に関して現在でも理解を示す者も多い(西洋圏の場合。その他地域に関しては感覚的には当たり前に近い)が、植民地支配後の日本の民間には主に哲学や宗教学と呼ばれているものである。

東洋、中東では現在でも引き続き、西洋科学の上に位置すると支持をされ続けているもの。本来的なサイエンスである。


私達世代の日本人が教え込まれて来た部分科学の物理学や、形式科学の数学等は、一定の範囲迄、具体的に事象を示す事が可能であるという特性を持つが、存在論(ロジック)的にも、存在的にもこの学問総体の下位に位置する。


敗戦後のアメリカ主導の政治に生きてきた、我々世代の日本人の感覚からは、少し分かりづらい本来的な学問総体の話しを超短文に以下の本文箇所に書きまとめてみた。


このような政治の下で育った、私達の世代は、百貨店で着飾り、人と比較して高級な物を身に纏っている事で自尊心を増幅させ、若者言葉で表現するなら陰キャラになりたくない!と考えて生きているが、この思想は、実は政治に基づいており、実に世界の過半数以上の国ではこの思想は陰キャラなのである。


私達は、いや少なくとも私は、資本主義社会での経済活動とこの学問総体を和合し、日常を自然体で生き、本来的な意味での効率化を図ろうと考えており、同じ経済活動圏で活動する事になれば、あなたにもこの文章の広報が届いているかと思うが、悪意持って書き物をしているという事は断じて無い。

時を同じくして、現実に仕える同胞が1人でも増えるパーセンテージを引き上げたいが為である。


関心付けの為の広報の一環とはいえ、ギラギラの車や時計、札束、日本人がコンプレックスを持ち易い西欧人等を露出して、拝金主義的で猥褻な広告がファーストアプローチとなっている無礼を許してもらいたい。



世界はモノではなく、コトで構成されている。


これは全事象に共通する事であるが、今回は例としてDV男を挙げる。

私が女性相手の商売をしていた頃、彼氏からのDVについて、相談される機会が頻繁にあったが、典型的なDV男は散々虐待して、いざ離れられる時には優しくなる。


怖かったのが優しくなるという事について、個別に事象を切り取って、彼は怖い時と優しい時の両面を持っていると認識する状態の人はまあまあいる。ここを瞑想(正しく観察)する場合、その怖さと優しさに実態は無い。


事実は、彼が常に同じラインの経験したい事に意識を向け続けているだけである。


普段経験したい事に意識を向けてDVして、離れられそうな時も経験したい事に意識向けて優しく振る舞っている。


あの時、彼は優しかった、あの時彼は酷かったという事を区切り、性格的に良いところと悪いところがあるというように、それぞれを実態と認識しているのは誤りである。そのような二面性は仮に有ると呼べる観念であり、彼の性質の実態では無く、経験したい事に意識を一律して向け続けていた結果の一律した現象である。


DV男は、恋人というコトに帰依していなければならなかった。コトという主体に対して「私の彼女」「私の恋人がするべき都度の反応」という、述語を付与する場合、抽象的なコト(恋人)は具体化され、モノ寄りになる。


彼はモノ寄りに愛著するべきではなかったし、これまでの人生でモノ寄りに愛著して来るべきではなかった。

これまでの人生、経験したい事に意識を向け続けて来た結果のDVである。(優位性 抽象的なコト > 具体的な事、モノ)(「この私」の立ち位置、五感が観測不可能なコト以下、観測可能な事、モノ以上。よって「この私」が外野と和合する際に、マインドフルネスとなる。スポーツ、水風呂、サウナ、テレビゲーム、美しい異性とのデート等々)


このDV男は、同僚にも、先輩にも後輩にも友人にも、そのように自己の今迄の経験したい事の集積の結果、同じラインで世の中を認識して、モノ寄りに愛著している。



世の中は、このように自分のエゴ(経験したい事の蓄積)の大小によって、コト寄り、モノ寄りに認識されており、全ての精神的な苦しみ(本当は肉体苦も同様だが対機説法的に)は、モノの寄りの状態に向かう際に起こる。



幸福とは、コトそのものに寄っている状態であり、モノに寄っている状態ではない。

コトに寄っている場合、幸福の体感は増大し、五感の上で現実に起こっている事をマインドフルネス的に体感する。


不幸とは、モノ(肉体という私)とモノ(肉体の私が観測する外野のモノ)に愛著(経験したい事を意識)して(コト、家族やチームや友人)を、忘れてきた事に対する現象的な体感である。


エゴ(経験したい事に意識を向ける)ではなく、コトに仕えて非行為的になる事でマインドフルネスとなり、コトから離れて行為する事でエゴが生起する。


エゴ(経験したい事)が生起したタイミングで苦しみ、エゴが強まるとあらゆる外のコト(様々な主体)に対して述語が付与されてゆき、苦しみは増幅する。そして、その述語の羅列が少し引き戻った事で、私達悦びを感じているのだ。


つまりエゴ(経験したい事に意識を向けたこの私)生起下での事象の一切は、100%苦しみである。99.9%ではない。



エゴが減少すると、日常的なデフォルトでのマクロ(現実)視点の体感が備わってゆく。(私の彼女のすべき対応→恋人→友人家族。俺が稼ぐ為のこの職種→仕事→経済活動。自分の事をもっと愛すべき母親→お母さん。)


エゴの減少、現実のマクロ視点の体感的理解というのは、日常ではほとんど条件反射的な反応であり、このような抽象的なコトというのは、通俗的には才能、センス、細胞と言われるような超抽象的な言葉で表現されているが、この抽象的な現実に即した能力を養う為には「日常的にモノに愛著せず、コトに仕え続ける事である。」


目には見えないが、コト仕え続けてゆくと幸福と呼ばれる体感になる。



では、日常的にコトに仕えるとは何か。



家族に帰依し、チームに帰依し、友人に帰依し、上下関係に帰依し、責任に帰依し、日常的な運動習慣を作り、遊びをスケジューリングして、寝入る時間を決める。

ここから離れると苦しむ。世界の学問総体はそう言っている。



上記はモノが無常である世界(下位である世界)に対して、モノよりも存在として優位なコトに仕えている。


モノ寄りであれば、それらモノが変化する時に苦しみが生起する。

コトに仕える寄りであれば、そのコトの抽象度が高ければ高い程、現実寄りであり、モノに対しては非行為的に対応している。



先程の例で言えば、コトに仕える寄りであれば、恋人寄りの経験が備蓄され、モノに吸い込まれる寄りでは、DV男寄りの経験が備蓄される。


このようにして、抽象的なコトに使えた非行為のカルマの総量によって、世界の認識(エゴの強弱)は、ありのまま寄りに見え、逆に具体的なモノを追った行為によって、世界は非現実的に認識され、個々人の体感で現象的に認識が異なっている。が、しかしその出自は同じ抽象的なコトである。


現実を発見した人は、現実を作ったんじゃない、あったものを発見した。


エゴ(苦しみ)とは、経験の構成の状態であり、モノ寄りに愛著する事で強度が増す。強度が増すと現実から離れて、エゴ(苦しみ)に立脚した上での、嫌な事と悦びの人生になる。簡単に言うと、「コトに仕えずに、肉体の私が経験したい事に意識を向ける事」仏教、神道ではこれを悪業と呼び、アブラハム系宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)では罪と呼ぶ。


幸福とは、存在的に優位な現実(コト)寄りに仕えた経験の総量が増えて、エゴが弱まった状態の実感である。通俗的には日常的なワンシーンでコトに仕えた事を切り取り、仏教では1功徳を貯めたと表現がされる。神道、他アブラハム系宗教でも同様に功徳と呼ぶ。