数式の母は、数学行為であり、名言の母は哲学行為であり、数学行為と哲学行為の母は文学行為であり、文学行為の母は詩的行為であり、詩的行為の母は宗教行為(最大生産位置を自身に告白する)である。


数式、名言、文学作品、詩、宗教が外側に関係付けられて風景として見えている併存空間の居住者の母は努力(精進)であり、精進努力は文化(生産関係)の深いところまで連れていってくれる。(関係付けた風景を覚えて少々の全体性(空間的共在性あたりまで)を回復しようとする人をインテリゲンツィアと言い、外に披露する人をうんちくな人と言う。)


深い生産行為を起点にしてその下段の生産行為、その下段の生産行為、その下段の生産行為というように、生産行為を生産関係のままに設置する事で、国家が出来ている。


堂島共栄会を歴史というで見れば、私が創始者であるが、現実の生産関係から正しく見れば、それは文化(一本の時間)と呼ばれる生産諸関係の流れの途中の私の生産位置に連なった生産行為達のポゼッションアートに過ぎないので、本当の創始者は天照大神(大日如来)なのである。


徳目に乏しい者は、主体性を保ち精進する事を死守せずに、すぐに主観か客観に流されて陰湿になる。そして周りに干渉して周りも汚す。


このように各徳目の対である猥褻さに流され続けて来た人間(ほとんど形態と化した人間)は、味覚、聴覚、感情(外的自己)が物質流転の働きである事が分からないので、それらを感受するこの私という個人を最深部の主体だと感じる。(※個人が先行しているという感覚は五感との感受と、情緒から離れた外的感情の臨場感に根拠付けられている。この根拠によって個人の生産関係を解説している学問はレシ化され、伝統文化は眼前に関係付けられてしまう。)


こうなると個人がポツリと絶対空間の中に生起して、ヨコの時間を体感して、毎日を生きているので、徳(最大公約数的なやるべきこと。)さえレシ化されて、風景の中の得と損の狭間で右往左往する


この世界は自分個人よりも力のある個人、力のない個人が存在して、悦びの獲得を競争しているという世界感となる。外側に関係付けられた凄い人と凄くない人という白痴になるので、書き手は手が汚れる感覚を辛抱し、著名な人達の言葉がありますよ!と聞かせてゆく必要があるのかも知れない。


猥褻者は、内容ではなく権威と考えた具体点にめっぽう弱い。有名な学者の言葉など。以下の文章は現象欲者に適応させた書き方になる。



唯物論を支持して観測科学のジャンルからスタートした学者達は、ランダムな化学プロセスが組み合わさって生命が発生する確率は、竜巻が鉄屑を巻き上げてボーイングが出来るような確率であるという。


著名な理論物理学者達は、あらゆる物理学の理論は、時間を超えた精神の不滅を強く示唆しているとよく言う。これは物理学のような自性の観点から計算をスタートする事でこのような答えになる。



【人体とモノについて】

プラトン(モノ自体の投影)

仏教(川のあぶく)

カント(現象界)

ホーキング(実時間)

カールユング(脳)

ベルクソン(相対時間)

ニュートン(絶対時間、絶対空間)

政治体制(左翼、共産主義)


【時間的持続(魂)】

プラトン(イデア)

仏教(川自体)

カント(モノ自体)

ホーキング(i 虚数)

カールユング(集合的無意識)

ベルクソン(時間)

ニュートン(魂、信仰)

政治体制(保守、伝統文化)


私が分かっていることは、この世がプロセスである確率が100%であるという事と、何によって何が出来ているという生産の諸関係。(具体性に向かえば向かうほど難しくなる。というより無秩序化されるので面倒になる。)


ハイデガーの言葉を借りれば、人間のこの人体はインザボックスとしてポツンと生起しているのではなく、世界内存在(In-der-Welt-sein)であるという事。


bit(情報)からit(物質)になっている。つまり生産位置(bit)からの記号集合体の羅列の途中で、私達に呼称するに至る対象(it)が生成されているのは明らかである。構造的主義的な遺伝子その他のあらゆる具体性というのは、後発的な具体的観念で、後発的実在であり、それよりも抽象的なコトの生産に基づいている。それ自体では無いのだ。


通俗的な表現に変えると分かり易い。世間の男性、女性が共通して思う「器の小ささ」「陰キャラさ」「しょぼさ」という言葉が示す内容の基準とは、コトからモノではなく、モノからコトが出来ていると思っている度合いと、その考えの再現度(発言、行動、所作)を言う。このモノからコトが構成されているという勘違いによって、当人は併存空間に生きる事になる。

このようにして併存空間まで落下するとかなり分散落下した地点からエロティシズムの働きで全体性を回復しようとするので、併存空間、最初の発生空間であるロマン主義と掛け合わせて、告白(将来の夢もここらへん)をして、繋がろうとする。

しかし元々生産関係からバラされている空間をくっつけたと頭の中で思い込んでいるだけなので、元々くっついていない。しかし当人はくっついたものが壊れたと感じて無常を体感し、苦しむ。


そして解決方法を模索するのだ、やはり主観か客観に落ちて構造主義的になってゆく。なぜなら戦後の占領政策によってモノからコトが出来ていると信奉教育させられ来たからだ。染み付いている。


これら洗脳された白痴層の損得感情と、集中(導通)よってそこから抜け出て一旦マインドフルネスになったと思ったら、また損得の併存空間に戻って、一向に作業の進みを体感する事が出来ない。頭打ちになる。


個人とモノ(モノ同士の導通)との関係が全体であるという唯物論は正しくのをロジックで理解していても、心の奥底では信奉しているので、個人とモノの繋がりを超えた順々の生産関係が分からないからである。だからマインドフルネスの前提どの生産位置がマインドフルネスを当たり前に保証するものかという事を経験(厳密にはその経験のプロセスの瞑想)をしていない。


個人からしか出発出来ないので、中には極端に体を鍛えたり、極端にパーティーをしたりして空間的共在性の持続を試みる者もいる。これは原則、左翼運動の行動原理と同じである。エロティシズムの中間なのだ。


マインドフルネス(空間的共在)の生産元は徳である。(※徳に執着しない事が重要。つまり徳とマインドフルネスの間の生産の連環を無視しない。)


味覚等を感受する主体(個人)が生産関係の根本だと勘違いしている人は、目の前のことから常に逃げて、取り組まず、損得に対して貪り、同じ苦しみを味わう。


その苦しみ(もしくは悦び)を感受している時には、もう一段階カルマが悪くなってよりフィクション(ぼってりとした悦び、苦しみ)が生起しているのだ。

そしてこれは周囲の人や子供に感染する。