私達は認識(体感)に基づいてバラバラに世の中を感じています。それは逆三角形の図で表す事が出来る。(※三角形を横向きにして、三角形の先端部(折衷)が背中の方向になるように自分の肉体(心とか頭を含めた全体)の深部に当てこむイメージ。深部の段が抽象性の強い認識(体感)つまり現実寄り。中部の断がそこそこの抽象性、浮ついた上段が対象の具体的な認識)


折衷、詩、文学、(←政治哲学数学→)、社会、個人、物理学、観念的物理学、思考。


これを文で説明するとこのようになる。(最も左(逆三角形折衷部)が折衷、最も右の思考が逆三角形の底辺)

「認識(体感)」というのは折衷(抽象性のMax)未満から思考迄のいずれかに位置している、いかようにも変化し得る現在の経験の構成の状態。

「言行」というのは左側(抽象性)寄り、あるいは右側寄りの経験。

「知性」というのは、現状の認識(体感)から左側に向かう作用、その経験。

「信仰」というのは、有点と有点を包括する抽象点の存在に対する確認。その経験。

「保守」とは、政治哲学数学の左矢印の方向の認識(体感)がデフォルトの人、あるいは団体に対して頻繁に使用される政治的な呼称名。

「血統(民族)」というのは個人から
政治哲学数学の左矢印方向、文学未満。(五感の上での確認。抽象性未満と表現すれば分かり易い)

「節度」というのは、その節度が演出する抽象点の左側へ向かう作用、経験の最低保証。

「戒律(節約、規則的なスケジュールに仕える)」とは、左側に向かう作用。節度より抽象性の少ない、日常的なライフスタイルのバージョン。

「経済」とは、国民それぞれの抽象性から具体性のいずれかのラインにおけるトレードオフの総体、具体性を随伴した認識ではトレードオフの対象範囲は多くなる。

「共産主義」とは、人間社会を横一直線に敷く行為を合理性と定義している様。

「地球主義(グローバリズム)」とは、観念的物理学と同様の体感(認識)

「個人主義」とは、個人の生存や権利を念頭に置く経験の構成から発現する意見。

「思考(近代的な個人主義)」とは、経験したい事に意識を向けているその状態。


「幸福感」とは「仕合せ」であり、仕合せとは、左側に寄る経験を苦しくても増やす事。

「不幸感」とは、経験の構成(体感、認識)が、左側から右側に向かう事。

「自由」とは、左側に向かって人間性を解放する事。間違った自由とは、右側に向かって人間を解放すること。人間性の解放と人間の解放の違い。


思考の解放、これが個人主義者の言う「宗教みたいに古臭くない最先端(いわゆるリベラルな国家運営の抽象性なき民主主義)」の正体である。

ーーーー詳細ーーー
「時間」とは下記文章の左側から右側、あるいは右側から左側へ流れる経験である。

「存在」とはコトからモノへ流れる行程「時間」のいずれかの認識(体感)を発足地点にした世の中。
古典学問の言うところの「魂」とは時間の中、左寄り、右寄りの経験のデータバンク。究極的には非実態であるが、心(具体点)とモノ(具体点)を包括する実態(抽象点)。
「エロ」とは、左側へ戻ろうとして、心とモノの働きを左側に戻そうとする発足地点へ向かう衝動。

「悦び、自尊による恥ずかしさ、怠惰」とは、コンプレックスによって広告に洗脳され易く、思考(世の中の具体性の認識)が多過ぎる者の病理現象。

「楽しむ」とは左側に向かう作業の進み。

「悪」というのは、ビジュアライズされるべきでは無い、右側に向かう作用。(抽象性(精進等)では無く、具体的な対象への渇望。怠惰、個人的な恥ずかしさ、悦び。)

「空間」とは、時間という持続性を保っているスペース。思考による誤った空間、例えば左翼の解放区とは、時間や関係から解き放たれた空間を指します。個人主義の空間が日常はうだつが上がらないものだと定義して、海外等での生活に自由の実態性を持たせるようなものだとすれば、左翼の解放区とは、時間を無視した上で、モノとモノの爆発のようなリセットされた空間(社会等の、唯物的な作用の抽象観念全般)を指します。(時間の制約を受けていない空間。)
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真理の探究(思考)とは、我々が何を前提に生きているかの上にあるものです。現在の抽象性の少ないリベラルな国家(戦後日本のような国)に生きている人権系、環境系、購買系というのは保守から落下して共産主義、共産主義から更に落下した残り香で、被洗脳者です。逆三角形の図の最も上段に浮ついて位置し、先週の行いで幸福になったり不幸になったりするようなくらい不安定ですが、これは精進によって整います。

その洗脳されている人達が洗脳され易い根本原因は、幼少期から信じたいものを都合良く信じ、精進を捨て、他人と比較し、自己のなりたいキャラクターになっていこうとした事、これは精進によって整います。