人の幸福の第一義は間違いなく、快楽によって成就する。しかしここで言う快楽とは、刹那的な快楽を指さない。
抽象度の高い禁止によって明らかに保たれる、日常的な快楽である。

エロティシズムの発生について、違反時、禁止と快楽は比例する。しかし違反を優先的に目的とした禁止の伴わない行為には、快楽は伴わない。
違反という欲求のシステムは生産のシステム(禁止)の産物である以上、違反を繰り返す事で人間が満たされる事はない。つまり消費社会の豊かさは、豊かになればなる程、満たされなくなる。構造上必ずそうなる。

もしこの理解から外れて、禁止を保たず、違反を目的に快楽の塊を探すのであれば、快楽の成就から離れてゆく。

現状の体感に、次の禁止を添えて、肉体が快楽を引き連れていかなければ、人は仕合せてゆく体感を持たない。

日本社会においては、抽象度の高い絶対者(禁止を高める存在)が復活しなければ、国民が快楽を成就してゆく方向に向かう事はない。

戦後民主主義的(植民地支配目的)な自由とは、自由を感じた後、再び自由から逃れようとするオートマティックな逃避のメカニズム。
人間は中道的な禁止を高めるか、煩悩的に自由から次の自由へと、際限なく逃避するメカニズムに飲み込まれるかのどちらかしか選択出来ない。

私達は、学問的ではないなんちゃって自由という政治的イデオロギーの洗脳から脱却し、抽象存在の禁止を愛し、自由の本来の語義「自分に由る」、幸せの本来の語義「仕合せる」に立ち返らなくては、人間性の回復、即ち幸福感、家族、友人、恋人の回復は遠のく。

以上の文章をここから注釈してゆく。

世界の代表的な宗教、諸哲学、文学のほとんどにはエロティシズムに対する説明、あるいは表現がなされている。

聖書に習えば、存在諸関係のまず前半に混沌(連続性)があり、それは五感で知覚出来得る限りの無数の最小単位を、包括する抽象存在にあたる。(プラトンのイデア、仏教の彼岸、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のカオス)恐らくこれは超越的な存在そのもの自体、少なくともそれに近い状態であるだろう。そうで無ければ、整合性はとれない。
このカオスティックな状態「連続性」が「非連続性(切り取られ形態となる働き)」に移ろいゆき、主体と客体が表現され、俗世間的に言うところの生物として自と他の認識を生起させている。

例えば、生物において、無性生殖では分裂の時点でその主体性を失うが、有性生殖も無性生殖同様に、しかしゆるやかに分裂しその主体性を失う。
いずれも、連続性(死)を発足地点にして、後発存在である仮の形態において、主体性を体感している。

ここからも分かるように、生存という形態は、実際には独立して存在しておらず、確実に死(連続性)と連環した存在の連続性が先行して有るだけであり、死と存在の連続性を近づける為に、即ち形態という非連続性から抜け出す為に、我々は自然性という暴力形態(労働等の連続性に近づく供物全般)を通じて、結果的に「生」を実感しているのである。
逆に生存を存在として実感しているというのは、連続性から非連続性に強く落下しているその最中で認識が停滞しているからであり、独立した生存という切り取られた存在感覚の中では、世界の諸々の事象は、本人の体感で本格的なリアリティを持って具体的に、切り取られて体感しているのである。

非連続性から連続性に向かう自然的な暴力とは、労働等の連続性に近づく供物全般を指すが、具体例を挙げれば、自己が行為的になって子供を支配しようとするような、思考的なリベラル暴力ではなく、道徳や責任を基準にした子に対する体罰の本質的な様相、あるいは下位エロティシズムにおけるセックスにおいて自己所有とは真逆の自己喪失に向かう様相。また職業的な観念を投げ打って実際の経済活動に加わるという様相など、このような諸々の各部的なパートから始まり、初め各部を「がんばる」という個人的な体感によって、連続性へ移ろいゆき、全体性を少量回復する。これが「戻る暴力」である。
いずれにしても、自己喪失に向かっており、がんばりによって自己所有とは真逆に向かっている。

そしてこれを継続する事で、それらそれぞれのパートが徐々に近接し、広い視野で全体性を見渡す体感(認識)が日常のデフォルトになる。ここらへんで、全体性を見渡すに必要な、禁止の重要性の理解に抵触してくる。(この禁止の理解が、「生きる」という事において非常に有益な財産である。)


このように、自然総体の生産諸関係の中の禁止の位置に基づいて発揮される労働等のあらゆる戻る暴力(供物)を通じて、非連続性から連続性へ回帰する事で、自然総体の生産関係に仕合う事になり、体感に幸福を感じる事になるが、仕合って来たと体感して来た後も、これは常に禁止に即していなければならない。禁止(快楽)を高い位置に設置し直すを繰り返さなければ、その快楽は分散化(形態化)に向かうからである。

幸せ(本来の語彙、仕合せ)というのは、確実に禁止に対応しており、禁止に即した仕合せと、そこから逆に遠ざかってしまう相対的な悦びとを嗅ぎ分けるセンスが大切であるが、その嗅覚を鈍らせる政治形態が、日本における戦後民主主義という、学問から離れた生存在の実態性を前提にしたイデオロギーである。

つまり私が出資を受けず、学に触れず、またエンジニアリング資本では無い状態で、20代半ばで若干の世俗的な成功をしていたと誰かが言うのであれば、私が経験的に分かっていた事とは、水商売における異性関係において、あるいは会社経営の取引先関係、従業員関係において、抽象的な禁止を禁止のままにして未到達を継続する事でのみ到達可能な破壊されない人間関係、小社会の建設が先発して有るという事だった。

違反の前提を共有する事が最も非エロティックなのである。小我が浮き出た者同士で、猥褻な一過性の結合を求める時、彼らはニヤニヤして、切羽詰まれば、恐怖して震える。

2人以上の非エロティック的な対立関係の非連続性から、エロティックな連続性に回帰する働きを設ける為に必要な、最初の仕合せの切り口とは、実践的に言って「挨拶」に始まる「節度的な空間」である。事柄を優先して、自己喪失を体感してもらう。

団体性、即ち伝統的な国家、家族の形成とは、節度的な空間が保ちえなければ、自己から事物に一方的に関係付ける、趣味趣向的な家族観念、イデオロギー的な集団観念に向かってしまう。

また、原初の存在に近づく為に、即ち存在の連続性を死(完全な連続性)迄、高める為に必要なのは、禁止に対して違反を行う瞬間の「罪の体験」である。
禁止を侵犯しようとする刹那、それがなければ禁止が機能しなくなるような恐怖、後ろめたさ、「体感的な罪悪感」がある事は、原初の存在から放射される因果関係(時間、自然総体の生産諸関係)を遡る上で、最も有効的な作用である。

通俗的な社会モラルとは異なる、本質的道徳に背いてはならないという体感とは、禁止を維持する事の重要性の本格的な理解である。

諸宗教は既にこれらを明らかにしていた。国家もこれを学問と定義して認めた。政治概念上の最上位に敷いていた。国民は禁止を愛した。現代における社会と対立構造にある核家族が、国家(大家族)迄、抽象化する事が出来た時代もあるだろう。


しかし、私達現代の日本人は見誤った。
日本においては、つい80年前、第二次世界大戦敗戦まで、紆余曲折あったものの、家族が国家という抽象度であった、あるいは少なくともこの論理が土台となって生活しており、自己が全体の一部であるという自然総体のままの体感に、数千年間基づく事が出来ていた。占領支配後、GHQ占領政策において、個人主義的な風潮が強まり、米国(植民地独立国)の自由の定義が本格的に蔓延った。

個人主義の影響によって、自己の対象事物として、それ(宗教的禁止)を認識し「そのような考え方の人がいても良いと思う」あるいは、山、海、川などの物理自然から切り取ってくっつけて、近代機器が抽出されているにも関わらず、資本主義のプレイヤー側の消費者に対する進歩主義的な広告に支配された事で、宗教が「古い新しいという個人的な考え」であると思考するようになったであろう。
いずれにせよ、現代のあらゆる学問の総体(地盤)をカテゴリーとして認識してしまったのである。

そこからは戦後サブカルチャー(アニメ等)が、宗教というカルチャーの対機説法をサブの立ち位置を担った。
最近では、船上員個々人が非行為的な船長の元でまとまり、抽象性(大秘宝)を目指す過程で、エロティックに振る舞って戦闘し「生きる(冒険)」を実感しながら、抽象性に近づく。

これを自己の外にある作品として完結して見てしまうのが個人主義(イデオロギー的自由主義)である。
五感の上で見れば、第一巻から第何巻迄の作品として横一列に並べる事は出来るが、実際には、この五感の上のみで見た横の時間軸でさえ、把握されているだけで何千年間も説明が続いている存在諸関係に対する対機説法的説明であり、時代によってその表現技法が異なるだけである。

時間を横一直線から正確な時間に戻せば、日本語ではそれを「伝統」と呼ぶ。
リベラルな体感の人間というのはいつも、既に終わった自然的事実を切り取ってくっつけて意見しているに過ぎない。その意見自体が、伝統の流れの産物であるのだから、私達は体感的に「戻っている」を感じるか「外に執着しているか」のどちらかしか、今この瞬間の体感は無いのである。

仏教では次のように説く。(以下は釈迦の直説)
真理の探究において、最大の敵とは「放逸」です。私達は常に努め励む必要があります。