世界には、生産活動に仕え、家族、友人関係を大切にする事に成長を実感する国もあれば、自身がどれほど得れるかに野心を感じて、成長を実感するのが国民の総意であるような国もあります。


私達は個人主義国家に生きていますが、私達の周りにも日常的に、何か抽象性の高い目的(労働やそれ以上)に仕えて生活している人もいれば、個人主義国家の流れに押し負けて、獲得を目的にして、何か具体的な悦びを得ることを目的として生活している人もいます。



世界各国における一般的な保守政党とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドュー教、仏教、神道(日本の天皇制と呼称されるものの原型)などの各国古来の文献、伝統、節度を保ち守ろうとし、それらの文献や伝統が示す内容に知性的、肉体的に真実性を体感していることを指します。そしてそのような体感の人達を保守とカテゴライズして命名しているのは左翼、リベラルの人達だと保守の人達は言っていて、本来名前を付与されるようなイデオロギーではないという基本姿勢があります。


現代日本のリベラルな社会的風潮を基準に考えた時、日本の伝統文化に沿おう、守ろうという姿勢がデフォルトである状態は、基本的には右派と呼んで差し支えないかと思います。


保守や右翼の右派の人達のほとんどは自分達の事を保守や右翼というようにカテゴライズしていませんが、リベラルの人達は諸宗教を個々人の思考の中にあると捉え、色々な考え方があるなあとカテゴライズしており、右派の多くの人達はそのような解釈はコンプレックスによって浮き出た自我によるものだと体感しています。


つまり、自己から事物に関係付ける状態がデフォルトの体感であるのが「リベラル」であり、これは更に「次のリベラリズム(現象欲)」を掻き立てます。


自己が生産関係から切り離されて、自己の外にある事物を一方的に関係付ける。これによって抽象理解が出来ず、日常的にあらゆる事物を細分化させ具体化して認識するようになります。


このような体感がデフォルトになって、世界を認識している事が、現代人のストレスの根源です。


現代日本では、敗戦の影響で若者の9割以上はリベラリズムだと思います。皆、自分は特別になろうとするという量産型になっています。


GHQ司令部による解体前、私達は修身斉家治国平天下(自己が生産(抽象性)に仕えれば、結果的により抽象性の高い天下が治る)という共同体意識の中、あるいはそういった社会的前提のアトマスフィアの中で生きており、それは諸宗教(学問総体)の文献、伝統、節度、体感を根拠に保たれていた訳ですが、知っての通りそれは崩れました。


いわゆる近代化(西洋化)された事によって、故郷から脱出するような意味合いでの一人暮らしが社会通念となり、そこから個人が個人として他人(友人、恋人)を求めるようになり、悦びの為、また悦びが減るのを避ける為に、他者の顔色を伺います。(現代の空気を読むという近代的な俗語はここから)


こうして、友達や仕事を自己の獲得の中に置いて、悦びを得る得ないを自由意思とした、個々人それぞれの意見という意味合いでの横一直線の市民平等、外的感情の個性の十人十色に転換されました。

これがアメリカに事実上敗戦状態、白旗状態となっている、西洋諸国の「フリーダム」という観念です。

これは世界史では1800年頃から流行を初めています。現代のカルト宗教として民衆に最も流行している価値観がこのフリーダム。生産関係からの自己ではなく、個々人を発足地点にした上での意見に多様性を認めるというイデオロギーです。


敗戦後、西洋化が確定した時点から、個人が利便性を求め、流行の最先端こそ最良であり、その最先端は西洋文明であるという構図が定着しました。ここに日本人の西洋文化と西洋人に対するコンプレックスがあります。(海外ブランディング思考の源流はここにあります。)


この世界は有機体的に出来ているにも関わらず、日本資源から流れる有機体(自己など)の上に、別の有機体の価値観を被せようと、多くの人が憧れているのです。


総じて私達は土着(生産の因果関係)を失った。(経営に関しても、今有る環境をどのように駆使するか思いつかず、新しいサービスに食らいついて変化を求める経営者は、皆すべからず失敗します。新しい環境やサービスを乗っけようとする人は必ずその回転を繰り返して、失敗してゆきます。)

資源への感謝、抽象性に仕えた生産活動、抽象性に仕えた親子関係、抽象性に仕えた地元のコミュニティ、抽象性に仕えた家庭環境、抽象性に仕えた友人環境。


これが大転換されて、全てが個人を発足地点にした認識の状態になった。悦びの為の友人、プライベートの為の仕事、私に合う職探し。大転換されて日本では戦後急速に約80年の年月を掛けて、この肉体の体感や精神を計算に含まない、首から上の非合理的合理主義がナルシズムによって加速しました。


ちなみに近代(戦後)に日本で、初めに出てきた主義主張(意見)は、どの文献を見てもロマン主義です。(ロマン主義とは、ある特定の感覚に対する憧れによる人生観です。現代の若者で言えば、高級スポーツカー、海外、毎日の休日の獲得、フリーランス、起業など、あらゆる頭の中(自己から事物への関係付け)の将来の夢からの逆算して今を体感している状態。)


故郷(抽象性、責任、戒律)から離脱して、固定化された個人の恍惚(ロマン主義)と不安を抱えた人間は、中年になってくると良くも悪くも、耐えられなくなってくると言われています。ここに鬱などの自殺者や自暴自棄になってゆく人が現れるが、死なないまま、40代、50代を越えたこのロマン主義者は、加齢による人生経験の中で、過去の猥褻感から離脱してゆく傾向があります。


彼らの過去、同年代の成功者が経済活動の生産関係に取り組んでいるとき、最も浮ついたようなネットワークビジネスにハマった事。

同年代の成功者が経済活動に入って頑張っているとき、転職を繰り返し、新しいコミュニティに期待をしては、愚痴に終わった事。

同年代の成功者が自分の家族に努め励んでいる時、自己投資や保身的な人間関係から、FX等や投資信託等のサービスに搾取された事。


今も尚、自分の悦びをメインテーマに生きて、周囲を評価している器である事。


このような、いわゆる社会でイケてないと言われるような、成功者と真逆にいたような人間も、加齢によって家族や仕事に対して、労働まで全体性を引き戻したりします。


また若い頃に、通俗的な学校のお勉強でアイデンティティを感じていた人達は、それより論理的整合性の高い共産主義的な主張をし始めたり、晩年になると更にロジック的に優れていると感じるような保守思想、右翼思想に系統して主張し始めたりします。

つまり、「経験したい事に意識を向ける」という癖を、日常で変えないゆかない限りは、その認識を引きずって、固着化させます。

主張は違うように聞こえても、主張している理由は同じ経験したい事に意識を向けているだけなのです。(体感優位になるとき、自己の非行為による経験の構成(認識)の範囲で他者に対機説法が可能です。)


左翼主義というのは、既に分裂した個人(つまり体感の発足地点がリベラルである必要があります)が、首から上で共同性を理念として作り、ここでは無い未来に共同体意識を設定してそこに仕えようと努力している様です。これは計算枠が首から上のみの人で、個人主義社会で評価れる定義の知能が高い場合はこのようになり、知能がより低い場合には、先程のリベラル性ロマン主義になります。(休日、海外、友人や広告代理店を介したタレントとの交流、高級車、楽して稼ぐ自分は効率キャラ、経営者や実業家は、自己の猥褻な野心の中のイケてる職業と定義して、さも凄いことのように感じ、そこを起点にして、どのように他者から見られるか、どのような俺を自己に見せるかの臨場感が日常的に強い状態。)


左翼主義とは、リベラル性ロマン主義よりも知性は高いが、計算枠が首から上のみ(地頭、体感、教養の弱いイデオロギー)になります。


理屈っぽく、それをかっこいいと思っているような状態です。


より知性の劣る、リベラリストは他のリベラリストと比較して、私はこのようなモノ、ビジネス、休日を持っている事に優越性を感じ、少し知性が上がったラインの人達は、その比較し合っているリベラル勢から離脱した事を優越性だと感じています。


リベラルの頭の弱い人から逸脱している!という左翼主義者に蔓延るコンプレックスの裏返しをリベラルの俗世間ではインテリと呼び、日本の大学教授の多くが、この優越性を元に、西洋学問を学んでドクターの勲章に悦び、唯物論的西洋科学に没入して生徒達にその価値観を優越者の立場から教授しています。


左翼主義者は、どうにか体感優位から離れようと、日常的な体感でさえカテゴライズさせようと頭の中で奮闘しますが、やはり日常的な体感を引きづってしまう者がいます。しかし、当然肉体感覚や教養感覚を計算に含まなければ、自然には合わずに分裂的な体感を持つ者は沢山おり、このような人達が、新しいより深淵な超合理主義を求めた時に、故郷に帰るという未来を想定して、苛烈なイデオロギー的右翼に転換するというのが、現代の大方の知識人と呼ばれる人のあるあるの流れです。


つまり対象が未来であろうが、過去であろうが、それを固定化して、それが有る!と未来に置いた途端にイデオロギー(主義、主張、意見)になるという事です。


世界は過去の経験、時間的持続性の流れによって有機体的に繋がっているので、切り取ってポイントにして、それさえあればというのはあり得ない訳です。


しかし、体感がリベラルの人間はある意味の挫折によって体感的に政治的カテゴライズで言う保守になる(時間の持続性の上を生きる)となる。これは良くある例です。

例えば異性にモテない、あるいはモテまくっても幸せにならない。モノが手に入らない、あるいは手に入りまくっても不幸である。この繰り返しの喜びと苦しみの回転に対して、非行為的瞑想を日常において繰り返すときに、時間の持続性の上に生きる事が出来るようになってゆき、戻る。


このようにして、中年は時間の持続性の上の今を生きる体感覚を悟り易くなるか、ロマン主義と現実(時間の持続性の上)との乖離で苦しんで耐えられなくなるかが分かれる。


問題の根源は、簡単な話し幼稚性です。


体感的に幼稚では無い人というのは、体感の地盤に演出なし、イデオロギー(意見)なしを基本にしている。内的自己と外的自己の背景の時間的継続性の流れの体感理解である。

つまり個人が部分であれば、その部分は一体どういう全体に包まれているのか、部分にとって適切な位置は一体、全体のどこにあるのかを理解し、そこを歩もうとするのが中道であり、政治的カテゴリーの保守であるという事です。

今、この瞬間を生きているこの私の体感的抽象性に赴きを起き、道義に生きるている人が、自己を包む全体の自然の流れの中で適切な位置にいます。


この私を超えている、歴史(天皇や日本資源、生産圏を共有する諸の先人、両親、今まで付き添ってくれた夫、妻)、つまり当たり前にある、その前提の持続性の上の体感的な理解の上での今この瞬間を生きる事が、何も故意的に演出してこなかった人間の自然な体感です。


この一連の流れ、伝統というのは、日に新たに救い出さなければ、飽和されてしまう、習慣とは異なるものである。

ズレた時、反省と感謝によって、中道は理解される。革命後にリベラルがあり、私は革命(洗脳)からの回帰に自然性を見出しています。


自己の内に見出せる無意識の自覚が戻っている体感を自覚し直そうとするのが、インド哲学のカルマヨーガ(非行為的精進、徳を積む)ジュニアーナヨーガ(非行為的理解、徳を積む)で、抽象性のメタファーに帰依する(旗に仕える)等が、バクティヨーガ(非行為的初期衝動、徳を積む)にあたり、煩悩(リベラル)から戻った感覚を記憶させるのがハタヨーガ(肉体感覚に戻す)です。


日本の近代化(西洋化)は、意識的な未来(行為)によって自然な呼吸、ボディランゲージ、アクセントをバグらせます。恋愛や友人関係などの抽象性の高い分野のデフォルトの挙動を不審にさせる。


政治的には、各国の保守政権が保守的体感を持って政策を今迄通り正しく整えれば、戦争というのは起きづらく、後発的にリベラルが横一直線の平等性を意見として説いた時に保守側としては絡まれていると感じて、戦争は起こっています。


持続性の上で家族を体感しているファミリーに、初対面の人が馴々しく肩を組むことで戦争は起きます。


また、この内容は対外的に、日本ではおおよそ中道右派と言われるような内容で、現代のフランスやドイツから見ると強めの右翼になり、アメリカの場合は州によってかなり見え方は変わるが、トランプ氏の影響で中道的右派的に見えるのではないかと思う。


保守とは、イデオロギー的右翼とは異なり、過去という名の未来の為に動いたりはせず、自己の経験も含めた過去からの持続性に生きます。つまり無理念、無解釈の体感優位と言える。


そしてこの内容を聞いて、なるほど、保守とはそういう位置づけなのかー、と自分の知識のインプットに留まるものは間違いなくリベラルです。


こんな仕事に真面目に取り組むのはバカバカしいと検討する前に、自然に出来る事に真面目に取り組んで生産性を上げるのがいわゆる全うな保守であり、この人と結婚しなければ違う人生があったのではと検討する前に、今迄の時間の持続性に感謝等を常時体感に待つのがいわゆる全うな保守であり、私の場合、自分は日本資源に生まれた日本人に帰着すべきだから、サーシャ(外国人)と一緒にいるべきではないのではないかと検討する前に、今迄の既に有機体として存在する抽象性(関係性)への感謝と、一緒にした反省の抽象性に仕えれば、いわゆる全うな保守である。


有機体的に繋がっているこの世界の時間的持続性を生きていれば自然にこうなる。


神への理解なく、右翼を語ればそれはロマン主義を元にしているであろう、神への理解があれば一般的に言う全うな保守の延長線上にある全うな右翼と言って差し支えないだろう。右翼と保守という言葉に先に定義を持たせる場合は、このように体感的な差異がある。


神なき保守では無く、イデオロギー的右翼でも無い状態が道である。様々なカテゴライズを無くしたそのど真ん中の体感に宗教性(現実)がある。


・本来国土とは、物理的な土地を指すのではない。共同体意識の範囲を持って国土とするのである。国土や人を物質的な要素だけで考える場合、共産主義的発想になる。それは良いかも知れないし、悪いかも知れない。それを決めるのは、その共同体意識(abstractionなポイントの共有)の強弱によって変わる。



・保守とリベラルの、自由の定義の違いは、生きるという事に対する、自然の理解度の問題である。餌を充分に与えられるという動物園の檻の中で生きる事と。檻の外で家族と生きるという事。どちらが自然的であるかという定義の違いである。


・近代民主主義はコンプレックスや、嫉妬、自信のなさを基本に支持をされている。


・仏典等の文献を見るとき、「昔の人なのに凄い」というのは正しくない。植民地的にコントロールされていない「昔の人だから凄い」というのは正しい。


・近代的な文明主義というのは、そもそも歴史に見通しがあるとする信仰の裏返しである。