私の精神性を発達させた要因に水商売の経験があるが、異性相手の商売の経験というのは、怠惰に駆られてさえいなければ、昔から変わらない男性、女性が普遍的に求めている社交と性欲について、深い体感的な理解を養う経験になる。

どれだけテクノロジーが発達しても、異性相手の商売は常にある。あらゆるSNSの原理は社交にあり、社交と性欲は人間の原初的な欲求として存在している。

自分の経験からエロティシズムについて語るが、これは通俗的に言われるエロいとは異なる。異なるというよりもそれを包括するエロの原理原則、性的衝動である。

シンプルに言って、エロティシズムとは禁止(掟)と違反の関係を言う。禁止の事を言うのでもなく、違反の事を言うのでもない、その関係である。

男性も女性も、たちんぼのような売春婦や買春行為にはなぜかエロティックを感じづらく、劣等生すら感じるのか、それは現実の生産関係においてエロティシズムの下位であるからであり、掟(禁止)を保ちえず、いつも掟から解き放たれてしまっている状態を露呈しているからである。


エロティシズムの原理というのは、禁止を高めて違反を昇らせることであり、女性はエロティシズムの中で禁止を高めたがり、禁止を高めるのは行為的な事ではなく、彼女達にとって非行為的なもので、男性もエロティシズムが発達していれば、この感受性がデフォルトである。

また出会い系アプリの非エロティックさというのは、禁止を疎かにした一方的な違反への渇望で、エロティシズムにおける禁止をお互いに了解していないからである。お互いが行為的である。

エロティシズム下位のポルノジャンルでも、女教師、人妻など、禁止の前提にエロを感じるということ。ホストのセールスにおいて卓上の気遣い、スカウトのアポイントにける形式口調のセールストークに禁止があり、これらが序盤の違反性を高める。人間関係における立場という大前提の後の戯けたフリートークが禁止に対する違反の期待である。

阿呆はここを勘違いして、個人と個人の会話で、いかに気を使わずに話し合えるかが本質的人間関係、友人だと錯覚するが、これは思考による発明的な考え方であり、生産関係から個人が切り取られている場合、そのような考えになる。祖父母、両親、学校教育による戦後民主主義教育、個人主義の論理である。

家族というのも、何でも話し合える関係等ではなく、禁止と違反によって保たれた節度ある抽象空間である。(哲学概念上、親友も同様。)

違反への欲求を連れて、禁止のまま到達する美徳に貢献性(友人紹介や、プレゼント)があり、団体性(仲間意識)がある。


水商売では、しばしば色営業の定義が現象欲同士の馴れ合いになってしまい、数ヶ月を持って関係が破壊されるのが落ちだが、これも個人と個人、外的自己に依存している事が問題である。それは美しくなく、相手の現象欲の餌食になっているだけであり、阿呆はこれを「相手の関心を引けている」と考える。

外見的に良い関係とされるもの、つまり馴れ合った関係になったとしても、生産関係上、エロティシズムの節度ある関係の前では完膚なきまでに敗北する。

水商売者が、テレビタレントに引き合いで負ける時も、勝つ時も、この生産関係の上に立っている。

私は学生の時、なぜコミュニティの中でしか、いわゆる思い入れる好きな人は生成されないのか疑問だったが、エロティシズムの原理、禁止と違反の関係によって、節度ある空間が必要であるという事が理解出来た。学校や会社等の節度がエロティシズムを後押しする。
また昔好きだった人を思い起こすのは、エロティシズムによる作用ではなく、経験的な過去を愛するノスタルジーの作用である。

禁止を課すという点において、これは同性間のエロティシズムも同様である。節度や礼儀が前提にある上で、非個人的に調和している状態の打算なき尊守である。

エロティシズムを各自が経て高い禁止の共有が表れると、共同体意識は自然に現れる。

違反への欲求を連れて、禁止のままに到達する美学に通俗的な恋人を超えた、自然的な人間関係(ガチの恋人、ガチの友人)が間違いなくある。


私の場合、社会に出てから異性相手の商売を通じて、エロティシズムへの回帰の大部分を培って来たが、日本の私の年代において一般的には、少年時代ににタバコを吸う、また友達と変な迄に馴れ合わない。土着を裏切らない、オナニズムで話さない、総じて外的自己を優先しない。このように大人になる過程で、少々のエロティシズムを発達させる事が出来る。


水商売をしていれば、異性関係の終焉を目の当たりにする機会は並より遥かに多くなる。
いわゆる一般的な人にとっては、印象に残る交際相手との別れ数回がビッグイベントになるが、異性相手の商売においては、その回転数は何十倍、何百倍にも上がり、特別恋仲にならずとも、終わりたくない人間関係が増えては、終わるのを見る。またその特質から自分の来月の給与が直接反映される為、自らの性的魅力というのがそのまま生活水準に直結し、また業績においてキャリアが左右されるという点が成長を促す。

異性関係をサービスに含めた、幅広い同業者は、この別れを繰り返す苦しさ、解決を望む衝動が理解出来るだろう。
このエロスの解決なしに、水商売から弾かれ、敗北に対して丸くなった等と言い訳してもしなくても、その違反、禁止位置の低さの経験の構成は一生残る。

禁止位置の体感の向上によって、営業成績に明らかに変化が出始めて、もうそれが続くと自分で分かった頃、明らかに成長を実感した。これがなければ悟りというのが分からなかったと思う。

当時、他の売れっ子と呼ばれる人達から一線を画して業績を上げた事は、母数の論理ではなく、人間関係、及び都度のコミュニケーションの体感的理解の差であり、自分が分かっていて、周りが理解していない事をはっきり言えば、それはエロティシズムの理解である。

いくらでも例がある。
例えば、男は通常自分の身に即して、掟が侵犯されるという旨の感情を抱く事が出来ない。
女はそれを基本的に感受する為、女側としては、禁止をその都度課して、違反を高める。
女にとってこれが性的興奮の基本的要素であるが、私は相手が課す禁止を飛び越えて禁止を促し、相手から違反を促してきた際にも禁止を課して昇らせた。エロティシズムによって自ら小我を布施する態度は、周囲が自らの小我を露出することに、いささかの猥褻さを覚えさせ、小我を布施させる空間が生まれる。非個人的なマインドフルネスの空間である。
周囲からの友人の紹介等の貢献性が自然的に促されたのは、このような発達したエロティシズムによるものだった。
夜職で頻繁に使われる色営業というのは、交際量や個人的近しさの営業ではなく、エロティシズムの営業だと断定出来る。
嘘ではなく、嘘を裏切り、禁止を高めるのがエロティシズムの本質である。
頭よりも実行によって、精進が先行するという私生活の継続によって、長らくして徐々に変化を感じて報われた。私がいわゆる売れっ子と呼ばれている人達から群を抜いた数字が、恒常化されたのは、人間関係について本気で取り組み初めてから、おおよそ3年半程経った頃くらいだと思う。現在の団体性をクリエイトするに至る元出の資本と、コミュニケーション能力の基盤はエロティシズムにある。