元WBCチャンピオン井岡会長ご夫妻


元オウム真理教代表 上祐史浩氏


元プロ野球選手、タレント坂東英二さん


高校時代の先生わら、私の自宅にて



🔸現象欲


質素な母子家庭で育ち、実業団(フットサル)のユース選手として活動していましたが、戦力外通告を受けて、大学の授業がだるくて、19歳の頃に水商売を始めました。


20歳の頃に水商売と並行して、イベント業を初め、謎に貴金属買取を挟んで、人材紹介の営業活動で貯めた900万円の貯蓄を元手に23歳から法人で不特定多数の事業を始めて今に至ります。


活動的でした。学とコネのない自分はなんとなく人一倍頑張らないといけないと思っていました。


現在は中小規模の飲食業、人材紹介業、IT事業を経営していて、これからそれらのバラバラな中小企業を株式の効力で統一せず、学問と照らして統合し、企業買収を繰り返して小社会を作ります。


人間関係に嘘をつきたくないからです。


私達は何も勉強せずに稼ぐ事は不可能ですが、出来るだけ手っ取り早く稼ぐ為に、何を勉強すれば良いのかを知る事は出来ます。



未だに情報商材やネットワークビジネス等にお金と人間関係を支払ってしまう人は現実に存在しますが、それらの人達をことさらに批判する事は出来ません。


なぜなら、このような明らかにカモられる内容から離れて、実学の知識を深めようとし、経済の様々な解釈を大学で学んでも、知識を実用して儲ける人はほとんどいません。これもある種、お金と時間をカモられています。



本格的に自分の欲望を充足させる為に必要な分の儲けを得る為には「難しい資本主義の構造」と「難しい人の構造を」「要するにこういう事か」という風に、簡単に腑に落として「だから何をするか」まではっきりさせる事が必要です。(実用出来て初めて実学と呼べます。)



私も「資本主義」と「人」について、最低限の知識だけを勉強して、それなりに儲けていますし、人を儲けさせています。最低限以上の事はあんまり分かっていません。



このブログの記事は書籍化されますが、書籍化されたからといって信憑性が高くなるものではありません。



見映えがどうであれ、私達にとって正しいものとは、体感として理解して、使えるものです。



しかし、実用性があり、根拠のある情報と巡り合っていても「俺は俺」という様に自分を絶対化してしまうと、それら優れた情報は「ただの1ジャンル」となってしまいます。



これは、情報を仕入れようがない危険な状態です。


逆に「俺は俺」だと思いたいが故に優れていない情報でも信じたい!となってしまいます。


正確な情報を仕入れる為に、必要なのはまず仕入れ側が「俺は俺」などのあらゆる「信じたい欲求」というのを手放すことが必要不可欠です。



私や周囲の経験を見ると、物事が上手くいっている時期と、上手くいっていない時期の差はこの「信じたい欲求」を捨てたかどうかという部分が非常に大きなポイントになります。



恋愛でも自然に恋愛をしていれば上手くいきます。しかし俺のガールフレンドがこのように思っていると信じたいだと上手くいかないでしょう。



私達個人主義社会に生かされた人間は、日常的に小さな尊厳欲求の為に「このような体験をしたい」だからこのように話そう、と常に考えています。


「このような体験をしている」だからこのように話そうという人は少数派です。



「今こう感じたい」「今この体験をしたい」という事に意識を向けていれば「現実に起きている事」との間に摩擦が生まれて、苦しむのは至極当然の話しです。



起こっている出来事に対して、起こって欲しい出来事を自分で作り出して悩んでも意味がありません。



例えば、意中の異性に対して、苦しむ場合はこうです。



「相手が自分の事をこう思っている、を感じたい」


だから私はこのように発言、行動している。


しかし「現実の相手は自分をこう思っている」


この妄想と現実の摩擦によって苦しんでしまいます。



苦しみを減らしながら、問題を解決するには


「相手が自分をこう思っている現実がある」だから「こういうアプローチをしよう、またはこういうアプローチはしないでおこう。」というのが正確です。



しかし、多くの人は解決しようのない「私は今これを体験したい」という感情を、現実に今起きている出来事と重ねようとして、悩んでいます。



当たり前ですが、それは重なる訳がありません。




「起こっている現実に対して、これを体験したい」を自ら作っている為、変えられるはずのない今現実で起っている事について、自ら不満を生み出して、独りよがりな行動に出てしまいます。



体験したい事と、実際体験している事というのは違う訳です。



現実に起こっている問題の、解決に取り組む事が先決です。



「解決していると思いたい(体験したい)」というのと「解決すべき問題がある」は別物です。



「今、これを体験したい」に意識を向けないようにする事は日々のトレーニングによって可能です。(日々の生活の中で、その気持ちが少しでも生起したら、今起こっている事に意識を切り替える。)


経験している方に意識を流すという事は多くの国で「瞑想」と呼ばれています。



「瞑想状態」から外れて、このようなあらゆる物事を円滑に進める事が出来なくなる原因「今、これを体験したい」のジャンルというのは、政治や企業広告の影響によって、人それぞれ様々です。



そしてその様々なジャンルというのは「現象欲」によって決まります。



「現象欲」というのは、食欲や性欲などの人間が本来持つ、生理的欲求などを満たす為の「実用価値」ではなく、時代毎の社会や、育ち等の中での世俗的な情報によって後発的に価値判断をして発生する欲望です。



例えば、

経営者になるのが誇らしい!ハイブランドの鞄を持つのが誇らしい!自己啓発本の横文字使うのが誇らしい!などです。



人間が本来求めてはいなかったものを、情報によって、後発的に価値があると判断して、求めればそれが現象欲です。



つまり現象欲というのは、生まれた国、育った環境、見たもの、聞いた事によって、人それぞれです。


しかし、この「価値判断をしたい」という事自体は、人それぞれではありません。


したい事なので欲望です。



価値判断したくない!というのも、したくない事をしたいので欲望です。



この判断したい!このように思いたい!思いたくない!思わせたい!思われたくない!の全てが現象欲です。



この逆方向、経験している事に意識を向けるのが上手い人、鍛えて来た人(瞑想能力の高い人)が、幸福感を体感して、拗ねづらく、快活に生きて、物事の見方に主観が入らない、いわゆる成功者になり易い人です。



あらゆる現象欲というのは、尊厳欲求(他から承認されたい。自分で自分を承認したい)から来ています。



尊厳欲求の充足に自信がないと、現象欲を生み出して、最終的に、あらゆるコミュニケーションや、問題に直面する度に「どう感じたい」という気持ちを起こしてしまいます。



尊厳欲求の充足に自信を持つか、コンプレックスを持つかで人生は、良くも悪くも変わります。


尊厳欲求を現象欲に向かわせれば、不幸になります。体感覚の中で様々な具体点を認識して生きているので、あれは悦び、これは嫌いと慌しく生きることになってしまいます。


尊厳の充足に自信を持ち、行動内容を抽象性(事柄に対して頑張る)に向かわせれば、幸せ(仕合せ)になります。努めている対象が具体的ではないので、対象に飽きず、潔く爽やかに活動が出来ます。



「何を感じたい」「どう思いたい」などのあらゆる「体験したい事」に意識が向いている人は、お金を稼ぐにしても、モテるにしても、上手くいきません。世の中を具体的に認識して、現実との摩擦で苦しみます。


尊厳欲求に立脚した現象欲によって、現実に起きている事を観察する能力が阻害されているからです。



例えば、今の時代の人達であれば、テクノロジーが進んで色々と便利になっているので、最新のテクノロジーに日々の生活で触れている内に「最新は良い」となってしまいます。これを進歩主義と言います。進歩主義は個人主義(現象欲)の上に存在する価値観です。


「最新」のテクノロジーの実用性と、その他の「最新」を混同する事で、数百変わっていないとされる資本主義の構造や、何万年変わってないとされる人間の構造に対して勉強する時にも「最新」の情報が正しいと考えてしまいます。



しかし、実際は資本主義の構造や人間の構造は本質的にはとても長い間、変わっていないので、新しいものなんて何もありません。



資本主義と人間の考えている事の原理原則に「最新」などはなく、「最新の言葉」と「最新の技術」があるだけで、もっと言えば私達はただ「聴き慣れない言葉」を聞いて悦ばされています。


モデルチェンジしあオシャレな言葉にテンションが上がっているだけです。(日本人が英語に憧れるように、英語圏の人がスペイン語に憧れたりするような感じです。)


だから日本の書店で並ぶ、商業本はとにかく横文字を連発します。売りたいからです。(出版社では元々ストックされているタイトルに合わせて、著者に当て込みます。現象欲的な人はタイトルで選ぶからです。自己啓発系の内容というのは、元々読者の体感にあるものを、小難しく伝えて、あたかも新しいものかのように小難しく伝えて、読者に体感を再確認させて、ある種の満足感を与えるものです。


本来的な学問文献というのは、既に読者の体感にある地点から、まだ読者に根付いていない体感覚の地点まで一時的に連れてゆく書物の事。あるいは繰り返しの内容理解によって、根付いていない体感覚の地点がいつかデフォルトになるように促すものです。


自己啓発本は大方、自分の既存の体感の再確認をさせます。自分が絶対だと思っている人は、このように自分の既存の体感の確認をして納得した事に驚いて啓発されるのです。西洋科学論理も基本的には既に起こっている事の正確な説明です。

本来的な学問には既に起こっている事を俯瞰して見渡す、成長の働きがあります。



本来的な学問以外に触れず、進歩主義的な企業広告に洗脳されてゆくと、その内最新の情報と触れている自分というのが、自分のアイデンティティとなり、それを信じたい、人に信じさせたいという風になっていってしまいます。(自己啓発本や西洋科学の論文で得た知識を信じたい!披露したい!などがその類いです。)


このような流れで、問題に直面する度に「○○を今、体験したい」という感情が生まれる癖がついてゆきます。


現実に起こっている事と、体験したい事のギャップが生まれて「苦しみ」や「怠惰(だいだ)」が生まれ、独りよがりの悩みに奔走して、苦しむ訳です。


チームに仕えて、チームの運営が裏切らなければ、個人の防御とチームの防御は導通します。



「今、これを体験したい」に意識を向けないようにする事は日々のトレーニングによって可能です。(日々の生活の中で、その気持ちが少しでも生起したら、今起こっている事に意識を切り替える。)



例えば、お金儲けを勉強する時に、その勉強の対象であるテキスト自体が資本主義内のお金儲けの為に生まれた後発的なものであってはなりません。



「稼ぐ為の7つの法則」「相手を200%信じさせる方法」「ゴールデンマーケティング法」など



このような出版物(若者ターゲットのお金儲け)を盲信してしまうと、資本主義の中にいる、著者(厳密には出版社)の「こう思わせたい」に巻き込まれてしまいます。



参考文献(テキスト)というのは、最新の情報から選択するのではなく、出来るだけ長い歴史の中で淘汰されていないものから選びます。



それが根本だからです。



現代では、既にほとんどの人が、錯覚済みで、実用価値ではなく、後発的な情報価値に臨場感が向いてしまい、現象欲系の情報に臨場感がいきがちなので、根本を理解している人かすると情報価値を利用して、中抜きする事は昔より簡単です。(親が既に洗脳されていて、経済活動的ではなく、職業的に働く事を美化しており、それが子に感染(うつ)って、就職は善となっています。)


職業や就職そのものを善としているならば、それはその人が洗脳されている証拠です。



ナルシズムな「現象欲」は、学校生活から社会人生活を通してコンプレックスを感じた人が、外側の対象を利用して一過性の自信を取り返そうとする。後発的な作為観念です。ハイブランドの服を着ているのを見せるみたいな感じです。


そのような人達は、いずれ加齢によってボランティア活動等を行い始めますが、そのようなボランティア活動を街中でしている貧乏な人より、キャバクラでお金を落としている経営者の方が確実に人々を病から救い、国民の生活水準を引き上げ、危険のない街を作っています。

納税、消費等の循環によって経済は回るからです。


本格的に良心や個人を鍛える場合、このように現実に世の中で起こっている事に意識を向けて、すぐ隣の責任に気を配る事を心掛けます。



そもそも職業なんて存在しておらず、実際には経済活動しか存在していません。

民間層の職業に対する肯定というのは1760年代頃の産業革命以降から現代まで続いているとされています。エンジニアリングが進化して、物づくりに初期費用が必要になって、資産家と就職者(パート毎の分業)の立ち位置が明確になった為、職業そのものが善とされました。労働者は就職者へ変わりました。稼ぐ(経済活動)というのは、仕事選びに変わった訳です。


器が小さく、自信を持てず、抑圧された尊厳をひけらかしたい人間は、この職業選択に対してブランド思考を持ってしまい、現実の経済活動から離れます。



資本主義の原則はこうです。


会社員はお客さんに情報価値を提供します。


より安いものをより高く売く見せて、中抜きをして利益を上げます。



経営者は、従業員がお客さんから中抜きした分を受け取って、辞めない程度の固定給を従業員に渡します。


だから経営者は利益に対して給与を合わせておけば、従業員の数だけ儲かります。



お金持ちと時間待ちを両立させたい場合は、自分が、経営者になって、沢山従業員を作って、従業員がお客さんからいっぱい中抜きして、そこから中抜きすれば良い訳です。


しがない駄菓子屋さんをやっても従業員を働かせ続けて、更に従業員を増やす事が出来るならその経営者は儲かります。



お金持ちがいるのは、他の職業者の中継ぎにその人が入っているからです。(経営者に限らずスポーツ選手やインスタグラマー等も同じです。)


お金を持っている人は、コミュニティを形成して、コミュニティ内で物理的もしくは情報的に中抜きを納得させています。



資本主義の根本を説明するとこのような説明になります。このように中抜きでしか儲かる事はあり得ないと初めの頃は覚えてもらった方がいいかと思います。(普段から「今何が起きているか」に強く意識を向けておけば、そもそも職業教の信徒になる事はなかったのです。自分のしている事を信じたいとなって、あらゆる現象欲が「今、これを体験したい」を連続させて、転職(労働)をただ繰り返しています。)


そしてその中で、個人を認めてもらおうと、ファッションや言葉使い、態度の見せ方を気にして、ナルシズムに小さく生きていく事になります。



次に人の根本ですが、それぞれ個性があるように見える◯◯さん達は、いつも個人的に何かを思い、日頃行動しています。


先程の資本主義の話しのように「最新」ではない、長い歴史の間、淘汰されていないものを参考テキストにすれば、「人が何を思い、行動しているか」を明らかにしている文献は「仏教」です。


これは意外かも知れませんが、実用性を重視して、人間を腑に落とすには持ってこいと言ったところでしょう。(仏教と言うとリベラル国家に生きる一般人が思う意味での宗教っぽさが出てしまう為、人間の思考のメカニズムをまとめた仏法(ぶっぽう)という表現を以下より使います。)


著名な哲学者のハイデガー

「仏教書と先に出会っていたら、ラテン語とギリシャ語は勉強する必要がなかった」


20世紀最高の科学者のアインシュタイン

「科学と交錯し、科学に足りないものを補ってくれるものは仏教」


ノーベル賞受賞のシュレディンガー

「全ての自然科学の現象は心の働きである。客体たる世界に必須の条件が心である。主体と客体は本来1つ。」(これは2600年前に釈迦が説いたものと同様。)


人工知能の父マービンミンスキー

「人工知能を作る上で比類なきテキストは仏教である」


このように物理学や量子論の発展に伴って1世紀毎に評価を上げている仏教ですが、仏教の本格的に凄い所は実生活で実用出来る事です。


念のために言っておくと、私は特定の団体に所属する仏教徒(信者)ではありません。私はどこの宗教宗派にも属してはおりません。


ちなみに現代の日本仏教のお坊さんは、私は既に沢山知り合いましたが、私が思うに「信者」でさえないでしょう。

資本主義に組み込まれた「家業」だと考えています。


科学者というのは職業です。科学者達は保身の為にニュースソースを隠したがります。

彼らは自分が発見したかのように、自分達の言葉(最新の言葉)で語ります。


大切なのは「最新の言葉」ではなく「原理、原則」です。


私達人間の心理に最新はありません。人はずっと人です。


先程も述べた通り、最新が人間にとって活躍する場面があるのは、物理的に便利なテクノロジーだけです。人については2600年間、世界中のあちこちで支持をされている人間のメカニズム(仏法)を拠り所にする方が有益です。


確かに、敗戦後の日本人の潮流には、仏法の多くの原典に記述されるパーリ語、サンスクリット語よりも、自己啓発本の英語の方がかっこいいと思ってしまう気持ちは分かるんですが、お金稼ぎや人間関係を重視するなら、実用性を重視した方が良いでしょう。


資本主義である以上、経済活動においては、先程述べた通り、従業員を増やして、中抜きしてお金を貰えば良い訳なので、人を理解すれば良い訳です。これはプライベートでの異性関係、家族関係も全く同じです。


ちなみに冒頭で述べた「体験したい事」に意識を向けてしまい、現状との摩擦を起こして苦しまずに「体験している事」に純粋に意識を向ける癖をつけるというのも仏法のテクニック(瞑想)の一つです。(瞑想と言っても目を閉じてするものではありません。日常生活の中で、今◯◯を体験したい!をなくして、今起こっている事に意識を向けて、やるべき事をやれば、快活になったりするのがこれに当たります。)



また、先程の現象欲、原理欲の解説も仏法で説明されているロジックを分かりやすく書き直したものです。



「人の現象欲というのは、元々存在している原理欲求に対して、育った環境や社会などが干渉した結果、錯覚によって生まれている欲求に他ならない。」


「心内の影像を心外の実鏡(じっきょう)と見ることで迷いが生じる」という事です。



これは間違いなく理解しておいた方が良いでしょう。



何万年の文明の中で生きて来た私達人間の、ここ数百年間の流行の現象欲とは


オシャレだと思われたい

ヤンキーだと思われたい

真面目だと思われたい

優しいと思われたい

冷たいと思われたい

自由人だと思われたい

人格者だと思われたい

冷酷だと思われたい

モテていると思われたい

異性に無関心だと思われたい

論理的だと思われたい

本能的だと思われたい

大雑把だと思われたい

潔癖だと思われたい

遊び人だと思われたい

堅物だと思われたい

知識があると思われたい


などなど



これらは全て、自分を取り巻く環境の中で、やるべき事をやらず、自信を失い、失った尊厳を満たす手段として、後発的に生起した現象欲です。


相手の現象欲を捉える上では、大前提として、自分の現象欲を滅却している状態を作る必要があります。


自分の現象欲を滅却出来ずに「思いたい」「喋りたい」などの体験したい事ばかりに気を取られていると、自分の現象欲を性格だと実態定義してしまいます。そうすると、相手の現象欲も性格だと実態定義してしまいます。


こうなると「私とあの人は同じホモサピエンスで原理欲求を持っている」という事実から逸れてしまい、「私は私、あの人はあの人」という形で、シチュエーション(物理)によって常に移り変わっている相手の性格(欲望を満たす為の手段)を実態定義して、それに当て込もうと類推し続ける事をしてしまいます。(このようにしてギャンブル性の高い異性関係や、経済活動をしてもギャンブル性の高い従業員との主従関係(人間関係)が出来てしまいます。実態でないものを実態として見ると、壊れるが生まれます。)



家族、恋人、友達、従業員、など、人を見る時に、その人の行動や発言がただの現象欲だと知らずに「相手の性格で実在だ!」と決めつけてしまうと、相手が分からなくなって、人間関係は必ず壊れます。



現象欲を実態(性格)と定義してしまうから、物事を科学して見る事は出来ず、科学に反して物事を固定的に見てしまう訳です。(あの人はこういう人である等です。)


実際はその人の感情(現象欲)なんてものは環境によって簡単に変わります。変わるというよりかは常に動いているものです。外的な自己、つまり感情は物理作用なのです。


その時々で変わります。


例えば、自信がない人の現象欲の傾向がヤンキーだと思われたい人は、そのタイミングでは真面目だと思われたくありません。現象欲の傾向が真面目だと思われたい人は、そのタイミングではヤンキーだと思われたくありません。


しかし、出自は全て原理欲求の尊厳欲求(承認欲求)です。



一見異なっているように見える◯◯さんと、◯◯さんは、生起した現象欲が異なるだけという事です。


元を辿れば、尊厳欲求という人間の原理的な欲望を満たす為の「自信」、現代においては大方「経済力」と「コミュニケーション能力」と「美的身体能力」の能力不足が原因で、このような現象欲が生起しています。


あらゆる現象欲に駆られる彼らは、原理的にオープンな自分に向き合っていないという意味で陰湿で、いわゆる陰キャラです。(分かり易いようにあえてこのような言葉を使っています)



自分の尊厳を満たしたいけど、能力的に難しいとなると、「こういうキャラに思われたい」という発想が生まれ、周囲にそのアピールが始まります。


私の周囲の人間でも、世俗社会で勝利している人間というのは、このような現象欲に駆られている時間はほとんどありません。現象欲に駆られている人々に合わせてあげる事はありますが、気持ち悪い、寒いと考えているか、達観している人であれば、哀れみの心でその人達を見ています。



世俗社会のいわゆる勝ち組の人達は、自分が今何を体験していて、それによって何をするべきかだけにもっぱら意識を傾けています。


独りよがりに「体験したいこと」に意識を向けたりしません。


人に中抜きを納得させる手順というのは、相手の現象欲を捉えて、哀れみを持って相手に合わせてあげながらも、相手に寄らず(錯覚を認めても相手の現象欲が強くなるばかりなので、スルーするくらいの感覚です。)相手の現象欲が原理欲求に根差している事に、少しずつ気付かせてあげます。(直接相手の現象欲を否定すると、相手が現象欲を自分の性格(キャラ)だと信じたい、または信じさせたい欲求が勝って反発してしまうので、発信側(自分)が自分の話しのように現象欲について喋って、相手の自覚を少しずつ促してあげます。)


これを繰り返して、ペラペラな現象欲が尊厳欲求を間接的に満たすちっぽけなものだと相手が自覚してくると、人としての原理欲求を本格的に満たす為に「今、体験している事」に意識を向けて、職業意識の洗脳から脱却して、経済活動に入り、個性露出をやめて、本格的に人間関係の深め方を経験的に学んでゆこうとします。



※尊厳欲求の充足は自問自答する際の問われる側の自分を信じるという事なのですが、対象を利用して、尊厳を充足させようとすると、対象は相対関係である為、本格的な自信は充足されませんが、現象欲の程度が低いものであれば、普段現象欲が強い人は、ある程度自信を回復するのでそちらを紹介します。


現象欲の程度が低い現象欲とは異性欲と金銭欲です。

ここでいう異性欲は、簡単に手に入る異性ではなく、到底手に入らなさそうな異性に対するアプローチです。

自分はコミュ力が低いし容姿も優れていないから、この人にしておこうというような自己都合(現象欲的)では良くありません。


また金銭欲とは、俺お金持ってるよという感じのアピールであれば現象欲が強すぎるので、ここで言う金銭欲とはどちらかというと、稼ぐ欲みたいな感じです。自分が稼ぐ過程では自分の現象欲を押し殺して清める場面に何度も遭遇するはずなので、これも自信を得るのにとても良い作用だと言えます。



自分が現象欲がなくなって自信がついてくると、周囲の人間で自分より現象欲的な人達の現象欲を瞬時に察知出来るようになってゆきます。


そして経済活動も、人間関係も俯瞰して見えて来るのです。