恐竜やアウストラロピテクスは今の空間内の過去の時間。だから掘ったら出て来る。


空間内のパートが無常である事は誰でも分かる。だから空間教が出て来る。

しかし空間自体が無常である。縦の時間的持続に基づいて変化している。


例えば、神話に登場する生き物は本当に在った。描写は現在の空間内で描かれるので、在った生き物を現在の空間内で描く事は出来ない。


だから基盤として宗教は描く事を禁止している。偶像崇拝の禁止(事物的でも観念的でも)


じゃあ、なぜ神話の生き物が登場する聖書や古事記が、本という現在の空間内部の物として現存しているのか。それは当然空間内で製本したからである。


でも聖書や古事記の言葉は存在として先に有る。だから後々本になった。


言葉は他のすべての創造物よりも前から存在していたので、聖書や古事記はそのまま読むのが正しい。


言葉から時間的持続として存在諸関係が生起しているので、言葉の使用は充分注意しなければならない。

縦の時間的持続深部の方向へ向かう言葉の列でなくてはならない。

諸宗教の全てが、思惟、言葉、行いが文化的(生産諸関係的)である重要性を説く理由は、閉じた空間の内に在ると思いがちな、思惟と言葉と行いが、実際は時間的持続のプロセス(閉じられていない無常の空間)の生産元だからである。


悪魔に沿った思惟、言葉、行いを貯めると(経験したい事へ意識を向けた思惟、言葉、行いを繰り返すと)存在諸関係はさっぱり分からなくなる。猥褻な個人主義者、悦楽者、放逸者になって新鮮さに逃亡を繰り返す不幸な人生になる。


悪魔の貯蓄があるので、生産諸関係に向かって思惟と言葉と行いをがんばって精算すると、正しいライフが訪れる。正命である。


正命はなんか静かである。静かから飛び抜けて生産諸関係通りに深部に向かってやたらと精進する。(※正命を完成させていないと精進は全的ではなく、個人野心的な精進になってしまう。また空間的な精進にならないように。)


精進を突き詰めると、マインドフルネスが自動的に降って来る(時間的持続(空間形成よりも生産)に乗って空間的作用(マインドフルネス)降ってきているのが分かる。事物(シチュエーション)が生産に対応しているのが分かる。)


この世の現象の一切が時間的持続に立脚して訪れている事を知るとき、私(全体)に基づいた段々の生産行為(非行為)の全体像をなんとなく悟る感じになる。


諸現象がメッセージとして捉えれるようになると、愛情が降りまくって来ている事が分かる。

生産を高め続けて向こう側からアプローチが来るのを期待するようになる。


天上天下唯我独尊は最も誤解され易いが、真意をついている。(我とこの私を履き違える時、我は距離的に遠いような感じがして、私が我を遠い距離で信仰する感じになってしまう。)


ここらへんで正しい瞑想が座って出来る。座って瞑想するべき。(個人的にはここで正見が固まった。正見とは縦の時間でこの世が構成されている事を完璧に悟る事。)(座禅で三昧に入ったあと、この世の表現が完璧過ぎてえぐいってなれば良い。三昧を有点と見て、戻れないようにならないように。)


近代的な自我は元々なかった事は余裕で分かる。常に全体の意思というのは何かを嗅ぎ取る上手さ(徳、生産深部の情報)が必要。



三相(無常、苦、無我)


無常

空間を含めて一切は無常。時間的持続に基づいている。


この世の一切は苦しみなので、抽象苦に向かう事で最も仕合せる。


無我

この俺は、私では無い。シチュエーションを含めた経験が私(厳密には魂)




以下は超対機説法


関係付け(浮派、悪魔)

構造(空間内1パートの構造)

空間(空間の実態定義)

時間(時間的持続に基づいて空間の変形がある)

で世界はいつも揉めている。


関係付け(個人主義者)、構造(構造主義者)、空間(共産主義者)をバカにしないながら、そこの猥褻感に対してエロティシズムが自動で発動されるレベルの徳が必要。



世俗的には

関係付けた関係付けた妻、夫、関係付けた子供、関係付けた従業員、関係付けた動物、関係付けた電子機器、関係付けたetc...(この先に落下した抽象性観念として、ロマンス(社長、恋人、神様etc)(社会主義的になってゆくと世界等の非実態的絶対空間))

我が子

愛人

生産共有圏(友人(関係付けずに共に生産に入った関係)、家族(妻、子供、生産に入る場合))

祖国(現存していない人の生産の段々の連環)

神(全体側)

こんな感じで、これは生産地点の位置の総量によって深部を感じる。


尚、戦後民主主義は、関係付けを始める自我の主権を作って、空間調和を目指す構造。これを植民地化と言う。


これらは全て、月を指差す指。ヒントである。