豊かに生きたいというだけの論理は、人間が人間性を発揮する、維持する上で、確実に論理破綻している。

学問において、人間性とは死への衝動と、生への衝動を兼ねる事であると説かれ、死への衝動の解除(緊張への解除)を望む事は、非人間的、イデオロギー的であり、満たされない体感を常に随伴させる。

消費購買は、元々緊張の解除(死への衝動の解除)にふける、あるいはそれを目的とする生への衝動に偏った、ライフバランスを崩した弱者の幸福を目指すよう仕向けられており、強者はこの程度の快楽主義的な新しい行動スタイルに罪の意識に苛まれ、全体性を回復させようと個人主義的な集団性の中においては、エロティックに振る舞い、人間性を発揮するヒントをその言動から溢す。
全ての広告はモノと自己との間の物語のでっちあげである。

世俗的、職業的では無い、政治や会社、団体性に帰依する情熱の論理とは、個々人が独存した上体感の上で、互いが個人を尊重しようとする集団性から、元ある抽象性へ回帰しようとするエロティシズムによる作用であるが、近代的に言われる主体が確立してしまっている状態においては、このエロティシズムの作用を常時起動させる体感に至るより前に、まず中庸的、文化的な生活態度と、日常における抽象努力、いわゆる精進と言われる生産活動への自己の布施を継続的に行う必要がある。
これが無ければ、全体性を回復するエロティシズムの作用は残り香となって分散され、後発的に作られた虚構形態の中で作用する。それが様々なモノに対する消費購買への欲求である。

エロティシズムの真髄は、自己から抜けて全体性を見渡したいという衝動にあり、職業や消費購買などの後発的、俗世間的な自己と外側という連環を投げ打って、それらを包括する抽象的かつ存在として優位な連環へ回帰しようとするところにある。

弱者の消費購買のモノに対する欲求は、元々名付けようのない差異に記号を付与した事によって具体化された交換価値にあり、それら記号に対する欲求は、生産のシステムの産物である。

生産のシステムと、非行為、抽象性の度合いから行為的、具体性の度合いを指し、生産のシステムから欲求のシステムの具体的な流れを、唯物的に説明すると、労働生産性を引き上げようとまず抽象性に帰依して、従業員を雇った後、機械の方が機能性が高いと判断して、その機械の様々な種類が購買の対象となり、その時点ではまだ抽象性の高い労働生産に帰依しているが、いずれその生産(行為、非行為)の発現地点が、機械自体になる事で、その機械がブランド化され、それが欲しくなり、購入時にモノとの導通で全体性を回復する。)

このように欲求のシステムは生産のシステムの産物である為、消費社会は豊かになればなるほど欲求が満たされなくなる。構造上100%、絶対そうなる。(差異に記号を付与した事によって具体化された交換価値とは、体感的な恋愛革命における告白の誕生とおおよそ同ライン)

弱者がモノとの関係性を消費購買の形、自己から事物への関係付けの形態で一方的に関係付けた後、連関し、全体性を見渡そうとするのに対して、強者は抽象性に浪費(インベストメント)する。祭りや、宴、等の文化的行為である。大まかに言って、抽象化、差異化、超差異化の認識が、人それぞれ異なる価値を決定する認識の段階だと言える。
人間の消費体系一覧
記号体系(差位化、新型スマホ等)
機能体系(携帯、実用価値)
非機能体系(骨董品等、それ自体への主体。)
存在体系(祭り、宴、抽象性(存在諸関係の表現)への浪費)


弱者は自己意識の強さと比例するように日常的な罪の意識や責任感は極端に弱まり、それらの罪の意識、責任感は抽象度の低い生産のシステムによって、社会的に形成された観念に還元され、個人主義的小道徳の前提を他方面に望む。発言の量に関わらず、意見的である。

このような古典学問が言うところの悪業の強い人間が、行為的なアイデアによって生産活動そのものを常時的に妨げるのは、日常的な緊張の解除によって、近代的な主体(個人)が体感として独存し、全体性を消費購買というエロティシズムの残り香によって回復しようとする消費者思考(後発的な思考)の発足地点に常時的に立っているからであり、個人を発足地点にしたこのアンバランスな体感は、自由主義というイデオロギー、植民地下における民間人統治の典型的なロジックである。

これらの被洗脳民もしばしば、加齢による経験とともにいくらかの全体性を回復する場合は珍しくない。
しかし、植民地支配下における多くの人間は、特に学校生活、社会生活の中でコンプレックスを感じた若年層は、やはりモノとの関わりを消費購買に求め、そこに自己を溶け込まそうとするが、その弱者の論理の外側の幸福は、実際には外側のモノ(限界効用)に持たれてしまい、モノ側に持たれた自己という環境を成立させてしまう。
ここにおける体感が、現代の生産関係から切り離された猥褻な個人主義者の消費購買、つまり所有による成長、非成長の物語である。(いわゆる陰キャラの勝ち負けの論理、陽キャラになれるかどうかのような。)

結果的に全体性への回帰として、消費購買するか、あるいは環境の移動を回転させてゆくのみに留まり、併存的空間に生きて、日常的な体感における全体性、生産諸活動や友人のあらゆる連環からの隔絶が自然的に要求され、自己が自然に起き上がり続ける。
悦びへの愛著の裏で地団駄を踏み、孤立して自己特別視を望む自尊の言動、挙動が多くなり、人間性の解放と真っ向から逆にあたる、自己の解放を望み、日常的に我慢している体感を持つ。そしてその人は解放された後、次の解放をねだるのだ。

現代に至るまで、日本で量産されて来たこの奴隷思考者の、本来性、全体性の回復は、死への衝動(緊張へ向かう道)の回復とイコールであるが、もし抽象性を体感している者が、それらと共に社会生活を営むのであれば、その存在諸関係をデザインし、振動レベルで器用に訴え掛ける必要がある。
内側の絶対者(団体性、国家、家族、死への衝動)からの節度に基づいた民主性(個人の生)、即ち個人の背景にある生産関係を漏らす事なく、描く必要がある。


ーー簡単に言うとーー
生きよう、生きようとしている人は、いつも自分を主人公にして勘定に入れる為、決断がつかず、もじもじしています。

私が理解出来る範疇において、存在を正しく理解している日本人の内の1人として、戦後史における天才と評された三島由紀夫氏をしばしば挙げるが、彼の発言で「個人から離れた全体性の回復が仕合せの道で、敗戦後の植民地教育下(生への衝動メイン)の民間人の全体性、仕合せの回復はエロティシズムの成就であり、エロティシズムが成就する為には絶対者の復活が必要である」と述べていますが、この発言は、私の至らない経験の構成でも三島氏が現実存在の理解に非常に長けていると事が分かります。
また全ての文化的行為の根本にある宗教と、その他多くの諸哲学者、文学者が述べた存在諸関係の関連性を見事に話し言葉で表しています。

とにかく「全体から見れば、こちらの方が良いけど、自分に大変な仕事が回ってくるのはやだ、どうしよう」という迷いが、仕合せから遠のく計算間違いという事です。


植民地教育の被洗脳者はこのように全体性、生産関係から切り離され、個人が独立存在している感覚が日常になっています。


「死への衝動」のバランスがとれている人間は、全体性を見て「これだろう」とスパッと判断した後、自分に大きな仕事が来て負担が来たり、誰かに負担を掛けたあとに負担を調整していきます。体感的にいつも生産関係が優位な訳です。

自分の意見や欲が消えたら判断力は磨かれます。いわゆる地頭は良くなります。
行為的なアイデアはなくなり、全体性へ仕合せる事になります。

自分に捉われている人ほど自由ではありません。
自分に捉われた方が自由だと思っている人は、それが利己的で頭が良いと感じる事でしょうが、それは敗戦以降の洗脳による統治システムの影響です。(GHQによる去勢。抽象性なき国民主権。人間主義。)

これは陰謀論ではなく、史実におけるファクトです。これによって国家、家族、友人、ひいては経済における存在諸関係の時系列から、個人を切り離して、経済活動の末端である分業担当を職業を定義して、自分が選ぶ先に職業があり、個人の私生活の外に興味のない事として政治が位置し、自由と仕合せの定義が「自分に由る(生産関係に由る)、全体性に仕合せる」から、個人とモノとの連環による全体性の回復という意味での自由、あるいはそれよりも落下した悦びの連続的な獲得という意味での自由に移り変わり、「仕合せ」はその本来の語義から離れ「幸せ」となり、外側の具体的事象に解釈の中で変わりました。はっきり言って、これは地獄です。
 
このようにして、現代の自由主義と呼ばれるリベラルな風潮、各メディアの番組キャスティング、タレントの個人主義的発言(人はバラバラである)に国民の人気が集まっています。

このまま人間を個人として解放することが、人間性を解放する事にはなりません。
人間を個人主義的に解放すれば、現代の反体制的な効力でさえも充分に発揮しなくなってゆく事は間違いありません。

団体の人間を見ておりますと、大なり小なり猥褻な者がおりますが、人の失敗を見て、自己に悦が流れるというのは、団体性、全体性から離れ、自分という人間を緊張から解放させ、死の衝動(緊張)とのバランスを忘れた事によって生起する危険な信号です。

洗脳的で、生産関係から離れたこの私個人の私情を撃滅する事で、抽象性は見えて来ます。

だから私は、周囲の行為に対応する形で、非行為、エロティック(生産関係への回帰への衝動)に振る舞えば、共栄会のフラッグがいくばくかの力を発揮すると信じているのです。

そのようになった時、自然に国体に連帯感が出てくるでしょう。国家の立ち位置、家族の立ち位置は頭ではなく、頭を含めた全肉体によって明瞭になり、撃滅しようとしていた個人の立ち位置も懐の中で明瞭になるでしょう。

緊張とは事に仕える事であり、上手く事に仕えるには生産関係(今の仕事における役割と1つ抽象的な役割)を意識して離れないこと。

これによって「自己の存在」から外れて「生」を実感する事が出来る。

個人的な野心は、団体性を随伴した目標に変わり、ここに共同体意識(友人)は浮き出て来るのです。