経営とは、縦に物事を見て、外郭がついてくる事。つまり生産浮部の小枠の集約点の段々の連環から、深部の大枠の集約点の段々の連環まで世の中の全ては経営。


神は神様(位置)では無い。全ては神である。全ての意味は空間的では無い。時間的である。

未熟な頃、位置(自己)から位置(他者や事物)を見て始まって、三業を一致させる事でシチュエーション前提に向かう。


シチュエーションに向かうと、位置(自己)と位置(異性)の関係が「恋人」で解消され、位置(自己)と位置と食べ物の関係が「頂きます」によって解消される。

途中、新しい異性、新しい場所(空間)が全体だと考えたりして、寄り道をするのだが、すぐに新しさは形態化して位置に向かう事を瞑想する。(金がない時に高級な服を買って、服がほつれてそれを嫌悪した事と、お金持ちになった時に服がほつれてもすぐに買い替えれるようになって(新鮮さをとって)月日が経ち、届いた箱を開ける事に嫌悪が生じて来る事は嫌悪として何も違わない事が0ロジックで体感で分かる。位置(自己)が位置(事物)に関係付けているだけで、事物が個物として異なっていても(服から箱に変わっていても、他のなんでさえも)シチュエーション(位置(自己)と位置(事物))として全く同一である事が分かる。生産関係の浮(悦楽、怠惰)に向かうと気付きを与えられる。気付きはぼってり苦として与えられる。

(苦しみを解消する為に、常に気分転換に向かい、それを拡張させて世界各国にフライトすると、位置から位置に未だ関係付けていない空間(新しさ)によって苦しみは一時的にリセットされる。しかし次は世界各国の現場が形態化する。世界各国の目新しく綺麗なガールフレンドも老いよりも先に形態化する。正命においては、これを0ロジックで体感する。)

注意深く観察すると、経営というのは空間的に導通させる為のモノのヨコ敷きに向かって行えば行う程、生産諸関係深部へ向かうチャンスをなくす事に気付く。普段位置から位置に関係付けている場合、ヨコ(空間)に全体を感じるので権威に感じる。(実際はヨコのシェア、株式やエンジニア(モノ)のリング化)真剣に努めていると、ヨコ敷きは生産諸関係深部の生産から俯瞰して敷くものだという事に気付く。もしヨコに巨大に敷いてしまった場合、また空港と目新しいガールフレンド、進化的で新しい事業に逆戻りする。そして生産的従業員にさえ感謝せず嫌悪(形態化)する事になり、パーティーばかり開くのだ。


縦から敷かなくては物事は解決しない。全ての事象は縦に点を置く事で解決する。時間が空間たる持続を形成しているからである。

位置(個人社長)も空間維持(監査的社長)も生産発展(生産的社長)も、書面上は社長である。呼び方も社長である。在るのは生産だけである。これを0ロジックで体感する。


素直じゃない見栄っ張りがダサいと思えていない人は正命は絶対に整わない。


思いと、言葉と、行いを、経験したい事に基づかせない事で、0ロジックで現実を体感する正命(普通の状態)がある。


目の前の従業員を定着する為に、目の前の女を抱く為に、誰かに怒られない為に、誰かに褒められる為に、経験したい事(嘘)に基づいて三業を汚さない。生産的目的の中で、いつも正直になる。



正命を整えたら、経営に向かう。

経(縦に物事を見て)、営(物の外郭がついてくる)これはあらゆる対立構造の解決である。


経営とは本来、十二支縁起である。


元ある時間、経(縦)に乗せた生産をすると、どうなろうが空間が落ちてくる。空間は時間的持続だからである。

の時間(行)との勝負が経営である。経営は株式会社、有限会社等を抱合する全的経営(精進)を行う。(正命が整っていなかったら必ず限定空間的な精進で進みを感じない。新しさに敗北する。)


時間のどの部分の生産を為すべきか、それは伝統が示してくれる。例えば恋人は伝統である。友人は伝統である。夫婦は伝統である。食卓は伝統である。お詣りは伝統である。労働に抵抗しない事は伝統である。縦の時間で経営(精進)する事は伝統である。


経営は存在(生産諸関係、時間)の中にあり、持続(始めは穴だらけなので空間的に見えるが、経営によって穴ぼこが埋まる)を形成している。


逆三角形の図において

伝統とは空間的な中部以下の時間の点である。

文化とは最深部からの放射である。

知性とは縦の内にあるあらゆる点と点を線で結ぶエロスである。


精進で全的に縦に突っ切って向かうと、ずっと向こうからアプローチして来ていた事が分かる。そして死ぬほど無視をして来た事が分かる。


正命が整っていない時は、精進が限定的な個人主義的な精進(愛著か取著)になり(点の置き所が悪い時の)ぼってりした苦しみが訪れるが、それは祝福である。

祝福によって嫌でも縦の時間に向かわせてくれる。ぼってりした苦は、必ず位置と位置の関係(対立構造)で生起する。

ぼってりした苦しみの裏側には必ず悦びがある。悦びに向かう事はぼってりした苦しみを増大させる。

悦びとぼってり苦から抜けて、仕合わせ(幸せ)るのは必ず集約苦に向かう事である。集約苦によって快楽が集まって来る事を幸福と呼んでいる。


精進によってシチュエーション(位置(個人)と位置(事物)の抱合)に「私」を感じて穴ぼこが少し埋まると、他者の経験が自身の経験の内にある事が明らかになる。

その他者の役割も見えて来る。神側からの対機説法が見えて来る。全的にがんばっていると結構穴ボコは埋まって来る。穴ボコはカルマヨーガとバクティヨーガの不足であり、知性の系は細く縦に直線、あるいは曲線を描くに留まる。穴ボコが埋まって来ると座って瞑想が出来るようになる。現状の位置のチェックが出来るようになる。


神の遊戯という表現はそのままそのようである。友人、恩人、知人、敵の配役が、人人の宇宙で完璧に表現されている。


会社経営や恋人経営の世俗的なカテゴリーでさえ、段々の生産関係に基づいているという事が言葉で分かりづらい人がいるように、この世界が幻影で実態がないというのも言葉では非常に分かりづらい。

行(サンスカーラ)の放射によって位置(自己)が善い業を積んで帰るのであるが、バクティの要素(伝統点)を落としていると、善いが良い悪いに落ちる。行のどれほど深部に正体が在るのかは分からないが、明らかな作業の進みの感覚と成長の速度はダルマと世俗作業の一体化度に比例する。


無明ありて行あり。行が先行しているのを実感していない時は知性の系だけでの理解だったように、無明が晴れるという事は間違いなくあり得る。晴れるのが今生かどうかは関係がないので、とにかく汲み取り、位置から位置を0距離にして生産に帰依するだけだ。生まれて良かったと本当に思う。

個人的な哀愁的なノスタルジーに実態は無い。途中から真実を思い出すノスタルジーに変わってかなり頼りになる。



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みんなはシチュエーションの「私」を整える事で、生産関係が分かっていく。


ビデオゲーム等が楽しくなくなったのは、生産を要求されているから、関係付けていない空間へ移動して新しい趣味を見つけてはならない。世俗の一切をバカにせず生産を成しまくる。


「財を成しなさい。しかし悪を成すな。」

「若い時に、心を育てることなく、または財を成すことを怠った者は、魚のいない沼の老いた鷺のように佇む。」

釈迦牟尼の言葉。これらは対立構造の解決(生産)を成す事を意味しています。

お金は、どこか横からスライドして振り込まれてはならないが、生産の段々の内に金を生産する事は真理への修行であるという事。


空間を生成する生産(時間)を見る目が失われている間は、空間内部の部分「悦楽(ぼってり苦)」をシャットダウン(五感を抑制)すれば生産(段々の在る)がわかる。(※悦楽を抑制して経営に本気になりまくると、十二支縁起(12段の原因と結果)の無明以外は体感で分かる。)

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