総合的な識別能力とは、人間性に基づいている。
人間性とは、周辺愛(利他心)、知性(恥)、反省(罪の意識))の欠損の少なさ度合い。
識別に居座り続ける(捉われる)ことは苦であるので、識別し得る面的な生産を成す。
これで自己は整えられる。
(釈尊は、自分とは何かと聞かれたら貪りと答える。(自己の内側に在るものは自分の物では無い。)そして、自己とは何かと聞かれたら、五蘊(身体と外界事物、感受、イメージ、意思、識別である(識別が根本)と答える。また自己とは自分の主であると答えると答える。苦しみとは、悪業(自己の内側への貪り)であると答える。自己は善業(生産)によって発展すると答える。成した事が返って来ない事はあり得ず、識別出来ていないだけと答える。修行においては、仏への信(発菩提心)から入れと答える。)
要するに、私達は生産と帰依所しか待ってない。自己に訪れた状況は過ぎ去っているのだ。
それを知れば、常に自己(色、受、想、行、識)を発展させるという意味。(これが八正道第一義の正見。新人と業所有のみ。)
これが分かれば、シンプルに自己の内側は論外にして、三宝に帰依して生産をする。自己(人生)がどんどん発展する事が分かる。(生産出来ないのは、自己の内側を貪って(自分を生起させて)生産面を識別していないから。自己に依り戻るには、三宝に帰依する。)
(私は昔から周囲の人より早い成長を実感している。それは素直なだけ。若い頃から抽象性(仏)に帰依して、主義じゃない事はなんだろう(法)に励み、先輩を応人化(僧)して、縁に対して義理を通して発展を心掛けただけ。不義理られは不快だが、変に追いかけなかった。(識別は結果発表で与えられるものなので、昔も今もいちいち気にしていない。自信の源は神仏への帰依と、勝手に守った義理。)
指導者とは、背中で見せる(正念(正しい記憶)を与えて、人々の識別出来ない業を積ませる人物。(部活動のキャプテンのように全体空間に向かう社会主義(チームワーク)に訴え掛ける事では無い。)
三宝に帰依し、生産を積む(精進する)と、自己が善くなる。正しい精進の過程では正しい記憶(正念)を養う。
業(生活姿勢)が、善性(サットヴァ)と動性(ラジャス)だと、生産を繰り返して、図面を整える感じになる。陰性(タマス)と動性(ラジャス)だと、学問を持ち運ぶ図面教になりがちだ。
図面(生産諸関係)が有るという宗教(右翼)を持ち歩くのは、共産主義的体感者(タマスを引きずっている者)が論理的に論駁された際の症状であり、苦である。
一方で図面を持ち歩かずに、善性に依っていれば、それは強引な無秩序に接した際の頼りになる地図になる。
また、善性に依っていれば、軌道修正する為の情熱的な動静(ラジャス)は健全なエロティシズムである。これは色界のカルマである。
自己の内側に関係付ける境界性知能、不可識別層、平面識別層の陰性(タマス)が、自分から限定空間や、調和維持や全体空間へ向かう論理(左翼)は、自分から持続(自己)まで遡る途上のエロティシズムであり、地獄、餓鬼、畜生から人間へ向かおうとするカルマである。in the boxで人間をキープしようとする者は、進歩主義的に宇宙(スペース)に向かってゆく。
生産における時間的持続は、自立系(自己のまま)で伸縮しており、伸びた大枠が有ると思う者は小乗場(その人の自己の時間)を否定し、縮んだところの小枠が有ると思う者は大乗場(図面内の生産諸関係の発展のその人の時間)を否定する。(純粋素直な善性のカルマがないと、何かしらの有るを持ち運ぶ)
大乗場も、小乗場も自己への帰依だ。その自己の非所有(発展)を進めるには、三宝帰依に基いていること。これが混じりっ気のない善性である。
図面は社会という枠組みの本性なので、自立系の大乗場で頼れる図面に過ぎない。時間は自立系なので、他人(面)がやらなかった事は、必ず自分がやらなかった事。
もう一度。
例えば、左翼運動的な楽曲を聞く(左翼的な楽曲例あり。)それに感化されている人を滅多刺しにしたいエロスが沸くとする。
それは図面が有ると思っている。
実際は最も無秩序化したその面(個物では無い面)は教師だ。そこを愛せない事を自責(罪)と識別するから、イエスや釈迦に尊敬の念を抱く。(もしそれが面ではなく、個物だと識別すれば(面への愛のなさ、面を愛せない恥、それへの罪悪感情が欠如すれば)必ずスポーツ選手や、芸能人やお金敷き持ちを尊敬する。(左翼運動。)
境界性知能者や、不可識別者は決して、無秩序化された個々では無い。時間は自立系なので、それは仏たる面だ。
それらを馬鹿にするならば、神仏を馬鹿にする。神仏を馬鹿にするならば、自己の内側を貪りに逃げる。貪りに逃げるとは、面ではなく、個物的にのみ対処するという事だ。その無秩序化した個物をどうこうしようとしたり、その無秩序化した個物から逃げたりする事。
もし、面ではなく、個物的に対応した過去(悪業)に呪われているならば、必ず空間が生起する。
空間生起によって、後世の為(志)と自己の発展という人生(生きる)では無く、自分から責任(モノとの導通)とモノの変化(空間の変わり映え)の人生(生存する)に必ずなる。
志の人生は発展によって、縦の死に向かってゆく。(幸せに向かってゆく)
責任の人生は、物事に体系的に慣れて、ヨコの死に向かう。(暇つぶし(空間の回転)と死亡。)
無秩序化の面(仏)の未生産によって、必ず懲罰(面への生産要求)が下る。だから魂は成長する。
自分(陰性)が論理的に辿り(作家や学者のカルマで、帰り道を知り)、社会にそれを照射して図画工作しても(行動家、政治家のカルマ(動性)を駆使して軌道修正しても)現実的に自己が仕合うときは、いつも善性(神仏への帰依。仏たる面への供物(生産))に支えられている。
無秩序化した個物(実際は未生産の面)に胸ぐらを掴まれて引っ張られながら、面としてそれらを解決する。かつそれら無秩序化した個物の魂には主体性を認める。認めれない事への罪悪感から離れない。反省する。
私の自己大乗場がより善性支えられたものであるには、面への生産に励み、起き上がってきた立体性(生産識別層達)を図面+善性(色界)に誘う必要がある。
三宝への帰依の深さが、識別を構成する人間の三大要素の深さである事は既に述べた。
三宝の根本、神仏への帰依が生半可なものではなく、成就する為の方法がある。それは転生輪廻を認める事だ。
輪廻転生を認めるとは、業の作用の永久性を認めるという事。
・漏尽
・無色界(四段)
・色界(十七段)
・欲界(十一段)
注釈 欲界の下から七段を以下に記述。
・阿修羅界を解決してきた人が生産関係(四天王)へ。
・社会環境を解決してきた人が阿修羅界へ。
・社会労働をした人が人間界へ
・社会を怖がった人が動物界へ
・自己の内側を貪る人が餓鬼界へ
・人それぞれの貪りが有る(人のせい)とした人が地獄界へ
※生産識別層以下へ(上記の存在は瞑想によって視認体験が可能。嘘では無い。)(また平面識別層以下へ、その体験が身体的なアプローチに限定されていない論拠の易しい例はアキレスと亀を参照。亀が追いつかないのは詭弁ではない。実際に追いつかない。持続(出来事。(現出時)の初め(刹那)を切り取れば停止)として降って来て、それは過ぎ去っている。供物なきその場の運動は定有される矛盾では無いので、国家(図面)が最大自由では無い。従って国家という図面(配置)は確かにあるが、痕跡化として在る。時間的持続は自立系で面的に支えられている。)(個人主義(自分から空間)がいかに反人間的で地獄へ誘うものかが分かる。)
上記の三界(三十二段)の輪廻を間に挟んで、三宝に帰依する場合、自己への所有(自分の五つの魂レベル(識別)を無視して、遥か遠い無限(転生輪廻)の遠点(神仏)から「今」を見る事が出来る。
これによって立体が生まれる。神仏への帰依(バクティヨーガ)が成就する。(自己の内側に関係付けるのが論外になる。暗性(陰性)ではない、本当の人生が現れる。三宝から離れてゆくことで暗性(陰性)が差し込んでいる事が分かってくる。)
遥かなる遠点から今を見るという事。これが人間が持つ応人性(人間の全体性)の正体である。平面の全ては、仏神から永遠の命を与えられている事実への悟りに付随する。

