私達が通っていた公立、私立に共通する現代の学校教育では「個人と五教科」が行われています。


私達は五教科覚えることが大事なんだと教えられながらも、学校での人間関係や、放課後の生活、また授業中をやり過ごしている時間など、日常的な意識では、五教科の知識を自己に付け加える事をそこまで優先して学校生活を生きてはおらず、勉強は最低限しなければならない事で仕方が無いと認識していた人が多数派で、自己の外にある知識を溜め込む事に魅力を感じていた人は少数派だと思います。


私個人の学校生活の記憶を辿っても、教科書のページに書いてある文章を辿っている記憶よりも、その教科書が初めて手元に届いた時、また友達との修学旅行、放課後の部活や遊びの記憶の方が印象に残っています。


五教科の知識を詰め込む以外の時間、ある生徒は、そこにある人間関係(友人関係や異性関係)を観察して、何が人の関心を集めるのか、何が人の納得を生むのか、どのように楽しむのかを勉強(経験)して来た人もいるでしょう。


一方で、自分はこんな思いをしているのにあの人はあのような思いをして不公平だ!と憤慨して拗ねていた人もいるでしょう。



学校生活というのは、楽しんでいる人もいれば、嫉妬して拗ねたり、怯えていたりする人がいたはずです。また、友人を大切にしている人もいれば、個人のキャラを周囲に納得させたいと足掻いていた人もいました。



繰り返しになりますが、私達が通過儀礼的に受ける学校教育は「個人と五教科」です。

個人が学校教育を通じて、外(教科書)から自分に付け得た知識量や、外から自分に付け得る事を繰り返すという習慣の程度を、人それぞれに内訳たものが、学校偏差値(個人が職業を持つ上での評価基準)と呼ばれ、進学先やエンジニアリング資本の企業が新卒リクルートの回転させる上での参考基準になったりしています。


これが現代の潮流です。


これは日本の歴史に習えば、GHQ占領後(いわゆる敗戦後)の影響で(戦後民主主義教育(個人主義教育))と呼ばれるものの絶大な影響があります。

個人主義の対にあたる、保守国家が教育に採用する文学的、道徳的な教育はこの影響(厳密には大正教養主義から始まる)で現在は積極的に行われておりません。


道徳は、世俗的な社会的モラルの程度に落ちて一般に認識されました。




この変化は、法律やその法律を決める偉い政治家を支配する「憲法」に根ざしています。


この個人主義教育は日本のみならず、敗戦国を植民地化する為の植民地教育として、世界の政治や学問の世界では、客観的に見られているものですが、私達一般人(戦後の日本の民間人)の視点では、義務教育の時点(もっと言うと両親や祖父母の教育)から既に個人主義(外から自分に付け得る)を習慣にしてきた為、個人が外から何かを得てゆく事は、良い事。あるいは勝ち組であるというのが若年層を中心に基本的な風潮になっています。


個人個人はそれらを結ぶ「関係(家族、友人、クラスメイト)」で有るというよりも前に、意見を持った平等な1個体だという政策(GHQ以降の個人主義)です。


これが敗戦後、まず初めに敷かれたイデオロギー、反学問です。(実際は個人個人との間の空間にも干渉作用は働いており、関係が先立って、後発的に個人が変化しています。また学問では個人と個人の間の関係の深度、存在諸関係は、あらゆる事に先立って既に存在していると説くのです。)


今では全ての教育機関の大前提(学校→教育委員会→文部科学省→法律→憲法)が、敗戦後の憲法改正(抽象性なき、この個人という意味での国民主権)によって認められ続けています。


この煽りを受けて、無抵抗に爆増した洗脳被害者が教育機関の教員となり、教員は個人的職業であるという認識の上で、個人の優位性を生徒達に無根拠に説いています。(それをより具体的にして、自己が事物の働きを観測し、測定し得る事実とするのが西洋科学です。(現代日本の基本教育はその学科に関わらずこのジャンルの範囲に収まります。自己から事物への関係付け。)

結果的に、生徒は「人気になる為には、あるいは嫌われない為にはどのように振る舞えば良いだろう」と考えるようになり、教師も「生徒から人気になる為には、嫌われない為には、どのように振る舞えば良いだろう」と考えるようになってしまいました。

これは現代日本(事実上、個人主義国家の他同盟国)の社会的風潮で、20代、30代の若者を中心に広まっています。


世界中の国では、国体(抽象性)を維持し「経験している事」に意識を向ける事を優先する保守国家と、国民が個人主義的に「経験したい事に意識を向ける」リベラル国家があります。


私の印象では、敗戦後の日本でも40代ではまあせいぜい半々くらいになっていて、50代を越えると7割くらいは保守的体感なのかなと思います。これは経験的に何が幸福で現実的かを理解している為です。



しかし、敗戦後に生まれた現代の日本の20代、30代は、このリベラル(経験したい事に意識を向ける事は、個人の尊重であり良いこと。)という風潮は完全に社会現象となっており、もはや社会的モラルであり、既にその上に立ったインフルエンサー等の職業が後発的に生まれる迄になりました。



クラスメイトは抽象性を帯びた「友達」ではなく、具体的に認識された誰々となって、好かれたい、嫌われたくないとなるか、競争相手となって、自分が勝っているところや、劣っているところがあるのだと考え、個人は劣っている所に劣等感を持って、ある種野心的に孤立してゆき、エゴを確立させて、世の中を具体的に認識し、その具体性の大元である抽象性(世の中は抽象的なコトから具体的な事が生起する)が、肉体感覚で分からなくなってしまっています。


本当は「どうしたら◯◯ちゃんから好かれるか」ではなく「モテる」という肉体感覚が先行して有るのです。


どのような言葉を投げ掛ければ好かれるのかな?という具体的なモノ寄りの考えになってしまうというのは、確実に戦略的な統治システム「戦後民主主義」による洗脳の影響です。



さて、唐突ですが若者言葉で使われる「陰キャラ」


大人になると使う機会はありませんし、使うのに恥ずかさを覚える幼稚な印象の言葉ですが、私達が学校生活で「あの人陰キャラだな」「自分は陰キャラだな」となんとなく感じたあの体感は、学問総体を体感的に理解する為に、非常に分かり易い、重要な体感覚になります。


また、学問総体を体感覚で理解してゆくと、家族関係や職場の人間関係、異性関係、また経済活動の生産関係の理解、そして日常的な充実感を纏う事が出来ます。


個人主義という流行(敗戦後の風潮)を突破して、より現実に即した体感(認識のデフォルト)になる道程を促すものが学問総体です。


そもそも学問とは個人と五教科などではなく、そのようなものなのです。(つまり、この私個人や個人の意見が有るというリアリティから、その個人の有るを包括している既に有るものに沿って、認識が回帰していくプロセスを定義し、記してゆくものが学問の本質です。)



陰キャラの定義は人それぞれの認識(抽象性と具体性に起因する経験の構成)で段階的に異なります。


学問総体(諸宗教やGHQの改革以前(厳密には大正教養主義以前など、様々な理由の上で変化したリベラルではない(近代観測科学視点、つまり自己視点)ではない本質的な学問。政治概念上の保守論等)に基づけば、精神性の戻ってる度合い(抽象性の体感度合い、例えば、学校生活や社会人生活での、自分が経験したい事に意識を向けずに、友人、チーム、家族を大切にした経験、自分が頑張った経験の量)に即して、認識が人それぞれ段階的に異なります。


これは私個人の経験として、また2600年間口伝のみで広まる仏教の基本哲学や、神道の筋から流れる日本文化(天皇の教育勅語、神道の各文献、伝統的生活態度)や、日本を長くリードする保守政党の基本的な学問理解としてありますが、歴史的正統性のある文献には日本の文献のみならず、世界中で断定的に記されているものです。(また西洋も遡れば諸哲学が指し示す方向はこちらになっています。)


思考態度、生活態度の経験の構成によって、自身が学問的な肉体感覚を纏うか、個人主義的な感覚に落ちるかが変化します。


抽象性(家族、友人、チームメイト、頑張る)に仕えた経験がある程度あり、既に精神性(肉体感覚)がある程度戻っている人は、人間関係や会話などの日常の諸現象を抽象的に認識する事が出来ます。


逆に精神が発達していない人は、人間関係や会話などの日常の諸現象を具体的に認識して、それに対して具体的に対応しようとしてしまいます。


例えば、私達が体感的に感じる陰キャラというのは根暗や物静かとは違うかと思います。

しかし自分が陰キャラであれば物事を具体的に認識するので、根暗で物静かな人は陰キャラだと捉えます。

つまり活発、明るい、社交的という理由だけで陰キャラの対だと認識します。


これが陽キャラです。

だから陰キャラは陽キャラになろうとします。このようにして学校生活の陰キャラ要素の強い人は、その人が思う陽キャラの象徴、つまり根暗の対にあたる、ハイブランド品、なんちゃって起業家、外資系ホテル、専門用語、に飛びつきます。


本人は学生で培ったコンプレックスを熱量に社会人になって、そこに野心的な物語を感じていますが、陰キャラがよりこじれて強めの陰キャラになっている事に陰キャラなので気がつきません。




また別の例えを出してみましょう。

タトューまみれの人がクラブで縦ノリしていても、そこに経験したい事に意識を向けているような振る舞い、その人が自意識的であれば、ある程度精神性が浮ついておらず、戻っている状態の人であればそのタトューまみれ縦ノリの振る舞いに陰キャラを感じます。


しかし自身が陰キャラだとそれは陽キャラです。その人と一緒に写真を撮りたくなったりします。



また、陰キャラは経験したい事に意識を向けた上で、対象を見ているので綺語(飾られた言葉)等から関心が入ります。学生時に陰キャラ(陽キャラ)だった人は、意識高い系用語、記憶的知識が大好きです。


そうではない人は、与えられたシチュエーションから最大限がむしゃらに能力を発揮しようと心掛けます。その中に学校の授業内容がある事が体感的に分かっています。だから学校の暗記教育的な授業は退屈です。そして自己啓発本(商業本)もいちいち読みません。事に仕え、人間成長、精神成長に積極的です。

学問においては、これらの振る舞いは人の体感的幸福を随伴する事が分かっています。


また経験したい事に意識を向ける態度(陰キャラ的振る舞い)は体感的には人は苦しみ、その苦しみに支えられる形で悦を感じ易くなるという事が分かっています。



続いて、陰キャラとそうじゃない人の違いを簡単に列挙していきましょう。


陰キャラは感情的で、そうではない人は情緒的です。


また、陰キャラは、異性関係や仕事関係において、話し相手の感情の機微を感じ取ることが出来て、自分は繊細だと考えます。


そうではない人は相手の関心や情緒に訴え掛けます。(楽しむ、緊張する等のいわゆるマインドフルネスの下位に、感情の機微が仮に存在している事を体感的に知っているので、その感情の機微に対する対応は二の次、三の次です。)


正しい人は、気分が乗らない人がいたら、相手を楽しんでもらう、忙しくする(スケジューリングする)緊張してもらう、などの今に集中出来るよう工夫します。


しかし、陰キャラは自分が意見を持つ前の初発の認識(精神性)が深いところになく、浅いところにあるので、相手の都度の感情に気を使います。


そして私は気が使えている繊細なタイプだと考えます。陰キャラではない人が、相手を忙しくする、楽しくするのに対して、陰キャラは「大丈夫かな?」と常に気にかけ、相手を幸福寄り(マインドフルネス寄り)にはせずに、外的自己(現象欲に対しての現象欲の羅列)を増幅させます。


そして相手は、マインドフルネスにさせてくれる人の元、あるいは単に新しい人の元へ去ってゆきます。



また別の例を出しましょう。

レストランにて、陰キャラな人は目の前の高級な料理は俺が勝ち取った。あるいは今はこんな底辺料理だけどいつかもっと良い料理を得てやる!と思います。(ここらへんを野心家だと都合良く解釈したりして陰キャラ性をより強めます。)


そうではない人は、それを作った調理師や農家、産地への興味や感謝が具体的ではないものの、なんとなくな感じでデフォルトの体感にあります。



陰キャラな人は、今のレストランの例のように、自己から事物に一方的に関係付けます。

そうではない人は、生産関係から今起きている事の流れを自然(情緒的)に体感していて、それが日常のデフォルトです。


体感覚は日常的なものなので当然経済活動にも差異が出ます。陰キャラの人は職業等、後発的に生起した概念を実態だと捉え、そこに個人的な尊厳や不満を乗っけます。


そうでない人は生産関係を遡った箇所に日常の体感があるので、経済活動という枠組みの下に職業という区切られた概念がある事を肉体感覚で理解しています。


陰キャラは具体的対象に執着し、そうでない人は抽象的事象に献身的です。



陰キャラと比べて、そうでない人は人間関係が情緒的であり、陰キャラが社会人になって乗り気にさせられる就職観念や、ネットワークビジネス等、視覚(ビジュアル、ホテルで借りた会場)、聴覚(最新の言葉、ビジネス用語など)から入る臨場感に騙されずに、情熱を持って抽象的事象(生産関係)に取り組んでいます。



陰キャラは自己から事物に一方的に関係付けて自己自体が生産関係から切り離されています。


自己の生産関係とは両親です。例えば、母親が自分の事を大切にしてくれなかったり、父親が亡くなっていても、その生産関係に立脚して自己は生起していて例外はありません。


この当たり前の時系列に基本的な体感が随伴していれば(いつも感謝を心に留めておけば)自己が生産関係から切り離されて、自己から一方的に事物に関係付けるような事はありません。


また「頑張る」という体感は、自己が一方的に事物に関係付ける際に作り上げる沢山の具体的な有点を包括する抽象点に仕えている状態です。


頑張って来た経験の多い人は、自己が生産関係から切り離されて、自己から一方的に事物に関係付けるような事はありません。



また陰キャラじゃない人は、人間関係において「縁」が優先されます。

知り合ったという縁を大切にし続けていれば、友情は生まれます。(家族だから友人だからチーム(クラスメイトだから)等の縁)


陰キャラな人は、相手が自分に相応しいか、あるいはその人は友達と呼べるような関係なのかどうかをいちいち検討します。つまり「縁」ではなく自己から対象への関係付けが優先されます。(縁(関係)という主体に対する述語の付与)



誰にでも陰キャラな要素はあります。反省すれば、自分は更新されます。しかし、いつもの悪い癖、自己から事物に関係付けるように都合よく解釈し、自己が経験したい事に意識を向けてキャラクター設定をすれば、学問も整合性は取れなくなり、好きな科目、嫌いな科目、信じたい本、信じたくない本というように生きて、底無しに終わってゆきます。



縁による人間関係、家族、友人、チームメイトを大切にし、規則性(戒律)に支配され、日々精進(生産関係)に勤める。

とにかくイキらない。


自由という言葉の本来の語義は「自分に由る」です。ここでいう自分とは、自己が事物に関係付ける過程で生まれる無数の具体的な有点ではなく、それらを包括する最も抽象的な点の事を指します。


現代の日本人やアメリカ人、韓国人やフランス人、イギリス人、ドイツ人等のいわゆる西側諸国が言う「自由」の定義は個人の意見がフリーダムなだけです。


世界には196カ国あってそのほとんどが保守的(抽象性(伝統性)を保ち守ろう)です。(私達はアメリカテリトリーの中で報道番組を見ているので、実感は湧きづらいですが。)


私達は、戦後民主主義という名の全体主義に巻き込まれ個性を感じています。個性を感じているだけならまだしも、そのキャラ設定を他者に認めさせようと猥褻にもがきます。


その個性とは自分の意見や経験したい事に意識を向けた状態の事でしょう。


これは政治学上「リベラリズム」と呼ばれる主義、主張、イデオロギー、つまり「個人的な意見」であって、学問ではありません。



幸せという言葉も、そもそも「仕合わせる」という動詞でした。これは外界と自己との和合を指して、抽象点に仕え合わせるという意味です。またその後「為合(しあわせ)」と変化をして、内容は変わらないまま、誰かが為される事に合わせるという意味でした。その誰かとは「天(抽象性)」です。(上空の天ではなく、自己の生産関係の事です。)

そして近年になって「幸せ」となり、最近では自己が外側にある幸せを獲得するかのような印象を「仕合わせ」に抱いてしまっています。


これはとても悲しい事です。外側に実態性を持つ幸福は存在しません。


私達は「縁」を大切にすること。

既に縁として有る、家族、友人、チームメイトを大切にし、これを続ける事で、新しい家族、友人、チームメイトが縁に由って来ます。



縁を大切にして来ていれば、私達には既にかけがえのない家族や地元の友達がいたはずです。また元カレ、元カノは過ぎ去るのではなく、友人に昇華していたのです。


何も考えず、縁に努め励む事が本当に重要なのです。次へ次へと縁の放り投げを繰り返してはなりません。


共に努め続ければ、自然に仲間を感じてゆきます。