客観性というエゴ(行為)に苛まれた、主体性なき私小説作家の自殺の原因は、世俗的徳目に対し、受難の表情を見せる狡猾なニヒリズムにある。


コンプレックスによって、知性の働きに愛著し、人生の外側に、正しいこと写実して日常で持ち歩き、不幸自慢を芸術と称して、あるいは称されて、悦んだり悲観したりしたとしても、そこには無機質で空虚な、ぼんやりとした不安しか残らない。


自らの事を頭が良いと考えて驕っている人も、頭が悪いことを個性と考えることに無抵抗な猥褻者も、主観や客観が常に主体性に支えられている事を忘れてはならない。


日本近代史において、特に敗戦後の占領政策の影響下にあるここ最近の3〜4世代、私達の祖父母、両親、私達、そして私達の子供達は文化(太い一本の時間の持続)から切り離され、自己から事物に関係付ける併存空間に居住を始めた。


個人主義政治体制下で起こる自己から事物へ一方的に関係付けるという独特な空間の居住にまで落ちた後、この独特な空間(併存空間)からの脱却を試みさせる心の声、頑張った方が良さそうな気がする善の声に従って来ず、日々精進努力を放棄し続けた人間が物事を具体的に測量してゆき、外界の微細な具体性の動きに自身が反応する様を「か弱い繊細な自己」と考えるルサンチマン精神が誕生した。


ルサンチマン精神が、ロマン主義(併存空間内の最深生産位置)を求める道程において「告白」の概念が誕生した。(告白とは握手のようなもの。告白も握手も併存空間内の対立構造の前提からスタートし、握手は一時的に共在的空間へ向かう協調性であるのに対して、告白は自己の併存空間のロマン主義の中に他者を含めようとする行為的な心構えである。)(そもそも告白の原意とは宗教心の告白。例えばキリスト教を信仰していたら「諸々の事象の生産元は生産主体である。」と自分に告白する事。仏教であれば「諸々の事象の生産は行い(生産)に立脚している。」と自分に告白する事。

ロマン主義教を信仰していたら「実はおれ◯◯ちゃんのこと好きやねん」あるいは「おれ、本間はやりたい事があって、その為にこれしてんねん!」と自分や周囲に告白する事。


リベラルな政治体制下(通俗的な意味)の告白という意味において、なぜ人を守れる強い人間は告白を頼りにせず、告白に恥(猥褻者のもじもじする恥ではない罪の意識の恥。)等の抽象度の高い禁止を経験しない猥褻者は、告白を自己の一大事として高揚するのか。

それは併存空間に住む者のあらゆる種類の告白が、本質から目を逸らさせ、生産関係から遠く離す為に捻じ曲げられた権力意思(植民地政策その他)だからである。


恥を感じる事ができずに、個人の悦び(失敗すれば苦しみ)が掛かった一大事として思いの丈をぶつける猥褻行為はリベラルな社会の肯定する痴漢である。

リベラル社会が肯定するというのは相応しくないかもしれない。促進させている。


しかし、通俗的(ロマン主義的)な告白のレベルでは、あまりにも無常を感じさせ易い為、国民に対してのアプローチとしては説得力に欠けるので、ロマン主義の告白は職業アーティストのエンタメに留まり、リベラル系の政体傘下では手を繋ぎ連環する広告が用いられる。

分裂させた、個人意思と個人意思を連環(尊重)させ合うという説得である。

このような、併存空間に閉じ込められた事で生起する諸々の対立構造を空間的共在性で無理矢理に結合しようと試みる行為は、併存空間の本質的な解決には全くなり得ない。何かに仕え(集中し)一時的に空間的共在性に入っては、併存的空間に戻るような人間は続出し続けてしまう。

併存的空間の現出の問題は、どの時代も文化(現実の時間、生産諸関係に根付いた非行為的行為)によってのみ解決する。


併存的空間に居住するコラムニストが対比の例として出すプラトンとアリストテレスの最大生産位置へ向かう過程の議論において、プラトンのイデア論とアリストテレスの経験構成論のディスカッションは本質的に対の概念なんかではない。有名なアテナイの学堂の絵の中で、二人の指先が示す先の相違をそのまま真っ向から異なる意見として感受する人は、自分の周りに空間があって、職業やプライベート、得なことや、損なことが生起している併存空間独特の具体的な認識状態である。


このような人に対して言える事は、アリストテレスもプラトンも正しい。正しいと言うのは、あなたが思うような意見として正しい事を言っているのではない。アリストテレスはこの世に限定して要点を説いたカルマヨーガを重視しているし、時代背景から右傾化を危惧した上で中道に誘おうとしている。プラトンは王道のバクティ寄り。一直線に貫いて真理を卸そうとしているように見える。

またアリストテレスが万学の祖と呼ばれる所以は一本の時間の途中に窓口を複数準備したからである。一本の時間の探究全般の中に複数の窓口を設けて体系付けた。そして併存空間の居住者が今日の暗記教育(ヨコの時間)として見ている五教科というのは、アリストテレスが一本の時間の途中で設けた窓口の歴史(ヨコの写実)という風景である。

ヨコの時間の歴史は風景である以上、風景の時点ではどうでも良いのだが、数学、哲学、物理学などの風景から窓口に戻り、そのまま精進する事が出来れば、どのジャンル(窓口)の学問の歴史も突き詰めれば必ず抽象性へ向かってゆき、真理が一つである事が示唆されている事を確信する事が出来る。

私の場合、その対象となる学問の入り口は異性関係であった。

ある人は対象の学問が、スポーツかも知れないし、ある人は調理かも知れない。限定的な空間事象のどれを対象にしても、ヨコの時間内でのヨコ移動(ただの流れ作業)というスライド的な行為の生産包括順序を悟らせる精進は、そのまま全てが完璧に連環し抽象へ向かっている事を悟らせてゆくものだ。


他の徳目に配慮を欠いていたとしても、ある程度真理性が分かってしまうというのが知性の特質であろう。

しかし、前述した通りその真理性を外側に実態として持ち歩き、世の中を見下してはならない。客観的知性は主体性に支えられてのみ機能し得るのだ。


知性の働きとは、直感から対象(諸学問等の対象事物)を見て分析して直感(本来の時間)に帰って来る。あるいは帰って来る際に元々あった直感の発足地点を通り過ぎて、より深い直感を掘り当てて全体性を回復しているという事を理解しよう。つまり合理性を悟る知性の反復(ジュニアーナヨーガ)とはプッシュアップ(腕立て伏せ)である。


自分が所有する、厳密には自分が所有されている全体(直感)から出発して、分析して元々の直感の発足地点を少し通り越すというように更新してゆく。学問に努め励んで何かを悟ったような気になっても、寝て起きたら元々の直感とさほど変わらない。しかし少し直感は掘れている。これを続ける


腕立て伏せが始め5回しか出来なくても、やり続けると10回出来るようになる。これを続ける。対象となる事象に対して、合理性を悟ってゆく知性の反復(ジュニアーナヨーガ)を人生で繰り返しまくった人は、腕立てに換算したら1000回出来るかも知れない。しかし部活止まり、五教科合計止まり、通俗的な恋愛程度の知性の反復であれば30回も出来ないだろう。(通俗性でさえ頑張っていない人は5回もできない。)

ジュニアーナヨーガの対象とは、自分の直感が限定的空間だと認識してしまう全ての空間事象。それらバラバラの空間の統合性を繰り返し経験する事が目的である。


洗脳された認識構成においては、このような知性的な内容は理解出来ず、日常も限定的に空間を捉え、具体的な行為ばかりをして失敗し、抽象事象(義理等)から離れることに対する罪の経験が希薄になる。

逆に、自らの思いを打ち明けて、奪おうとする通俗的な告白観念に自由性を感じ、どんどんと限定的な空間事象の数を増やし、悦びの対象と苦しみの対象にまみれる。


このような洗脳によって落下した認識から脱出する為に、まず第一に必要な理解とは、次の通りである。


具体的空間→少し抽象的空間→抽象的空間のそれぞれの間が一本の時間の中で順々に連環しているという事の理解。つまり生産諸関係という言葉の理解である。(実態に見える対象空間(物事)は自性ではなく空性であり、成した行為の生産位置に基づいて、縁によって起こるという理解。)仏教、八正道の第一義、正見。


これを理解したら、直感を掘り続ける。

知性的(直感からスタートして分析し、勢いをつけて返って来て直感を通り過ぎる)徳目(ジュニアーナヨーガ)と、信仰的(出来るだけ抽象度の高い団体性に義理を置いて、直感に触れ続ける)徳目(バクティヨーガ)と、日常的(筋の通ったやるべき事を成す)徳目(カルマヨーガ)をメインに過ごしまくっている事で、徳によって直感の発足地点(全体性)が回復すると、生産主体からの抽象的連環を悟る事になり、現代の保守的な国々が語る魂と呼ばれてきたものが体感で分かる。

ここでは徳が得の生産元である事を悟っているので魂(団体性、友愛、国(家族)愛、)に仕えた事(高い生産位置からの仕事)を成してゆく事が出来る。そのままの形として国家、団体(家族)は存在し、この団体性あたりの生産位置から生産下部へ向かう生産関係の記号集合体の羅列に基づいた生産の羅列の途中に夫婦愛、親子愛、核家族愛が存在し、そのまま生産下部の羅列の最後徳と呼べる最低保証のラインに、常時的なスケジュール、即ち労働や肉体(モノ)と世界(モノ)の間の関係を成立させようとする体作り(運動など)がある。そしてその下位に徳のない、いわゆる悪業と呼ばれるような得と損の感覚があるのだ。併存空間である。自己(エゴ)の職業や、自己のプライベートな時間等の具体的な信仰対象(あの就職先は給与が15万で損だが、あの就職先は給与が30万で得など。この時点では既に生産関係から切り離されて、自分が対象となる具体的な空間に向き合って、それに触れるか触れないかという世界感。損得感情が生起している。)


上記の生産の流れに基づいて人体、モノ、カネ等(マテリアル)な諸現象が存在している。


※例えば上場企業等(出資するオーナーが沢山)はヨコ一直線のエンジニアリングを出来るだけ長く敷く事でお金を集めて、出資者達に還元している集団性であり、中小企業というのはエンジニアリングに持たれてしまっていない限りは本来は全て団体性を要求されている。)

(※大企業が出来る例は、個人主義的なエンジニアがエロティシズムによって、全体性を回復する為に革新派的(左翼的)に横一直線のエンジニアリングを新しく変化させて進化を感じ(その全体の実感に高揚し)人体やモノやカネを導通させる新しいヨコ一直線のシステムを敷く。

しかし、それは全体(時間的持続性)の中では進化ではなく変化(無常)なのだ。(革新的なアイデアでヨコ一直線に導通させたとしても、それ自体が形態化されるので、常に新しいヨコ一直線を敷いて、モノとの導通以下の併存空間に居住者達に見せる必要がある。)

個人から出発してヨコのエンジニアリングで全体性を回復して、また新しい革新的技術を作るというのは共産主義的な体感なのである。だからスティーブジョブズは禅で停滞する。リベラル政権下の個人主義者はモノとの導通、新しさ(革新)で全体性を回復するので、リベラルな人の消費はそこへ集中する。ヨコ一直線のエンジニアリング(モノ)を長く敷けば敷くほど、そこにヒト(併存空間居住者)とカネがそこに集まる。だから上場(無常の中で、真ヨコに権利を敷く)というのとかなり相性が良い。重要なのは、それが生産関係の中部である事の理解なのだ。)


徳が得の生産元である。

(※厳密には、徳が労働(モノとの導通、ヨコ)の生産元であり、労働が、損得の生産元である。個人の併存空間(ロマン主義の中の損得感情)から離れ、生産の根本方面へ向かいたい激情が、エロティシズムであり、エロスの持続が精進である。

ここが分からなければ、精進の生産元に個人(併存空間)が来てしまう。(個人が精進をしている感覚)実際は現状の精進に基づいて個人がある。


これを悟らなければ、この世はすぐさま分からない事だらけの迷路になる。会社、部下、上司、プライベート、楽しい事。楽しく無い事。損したこと、得したこと。


キリスト教では、特に旧約聖書においては、生産関係の全体が徹底したヨコの時間軸によって書かれている点が生産関係に対するインスピレーションを現象欲者を含めた世界中の人達に思い出させバズった要因であるが、旧約聖書や古事記のようなまとめ方にはリスクがある。

国という概念の生産位置を理解している団体(いわゆる保守勢力)が政権与党となり、本質的な文化保全を成さなければ、ただレシ化(神話的、物語化)されて形態化してしまう恐れがある。(現に日本においては、敗戦によって生産位置を下げられて併存空間が実際に生起している人間がかなり多い。)


レシ化された後、文化から切り離された状況においては、西洋近代科学(個人)のラインから遠くない地点で出発して、無常から生産関係を説く仏教が台頭する事になる。