法について。
ドグマが無い法則。教義否定。
釈迦について
釈迦の法(諸現象)に対応する実践的な指導原則は「中道」である。これは釈迦が初めに説いた初転法輪の中で述べられており、物理的な苦行及び、快楽主義の両方を否定する「中道」として八正道を提示した。
八正道について
十二支縁起を教義的にまとめた四諦(苦諦、行という生産諸関係に住まう事は苦しみであること。)(集諦、行苦の中で有行為(非集約苦的行為)を成したり、成そうとすると苦しみが集まって来ること。)滅諦(それは滅する事が出来る事。)の四つ目、道諦にあたる。
八正道の目的は苦しみの原因である有行為の業を清め、非行為で行を薄める。識別を本来の状態に戻して無限の再生と苦のサイクルを終止させる。
八正道は三学(戒定慧)を説いている。【慧】正見、正思惟。【戒】正語、正業、正命。【定】正精進、正念、正定。
三学について
【戒】
戒一、正語は、語りでいなそうとしない。(どう思わせよう、どう思おうという動機の語りをなくす。)生産関係へ向かう語り。
戒ニ、正業は、所作でいなそうとしない。(どう思わせよう、どう思おうという動機の所作をなくす。)生産関係へ向かう非行為的な所作。
戒三、正命は、日常的に猥褻さに蓋をして、行(識別)に基づいた広義な文化的生活。自我によって色付けしないライフ。(前の三業を綺麗にしないと絶対出来ない。)
【慧】
慧一、正見は、横の時間の生死が現象である事の理解。
慧ニ、正思惟は、何でも節約的(生産的)な気持ちで対応する。消費的な気持ちから離れる。
【定】
定一、正精進は、全的な生産。正精進の真逆の言葉は三毒(貪、対象の現象を増やす貪りの心)(瞋、不快に対して情緒的に生産で解決せず、感情的に(移動)で解決しようとする心。)(痴、法の不理解によって、ドグマを所有すること)の侵食。
定ニ、正念は、生産(正精進)によって訪れるシチュエーションによって常に非行為な状態。(正精進が出来ないと難しい。)
定三、正定は、四つの識別の状態。
初禅、日常の蓋によって生産に仕え、欲界から離れる。自然に尋伺(バラに見える対象の非構造的な究明)が起こり、離によって喜と楽メインの状態。
第二禅、日常に釜をして生産を続けると限定空間がなくなって(生産が分かって)尋伺が止む。
第三禅、日常に釜をして、生産を続けると喜が止む。楽メインの状態。(正念が熟してきる感じ、慧の発達が見られ、正見と楽が一本線な感じ。
第四禅、生産によって楽が止む。ここで憂がなくなる。以降、生産を続けている以上、憂とは会わなくなる。
※釈迦が八正道で説いている正定は明らかに上記の色界の四禅迄を言っている。以下に続きの五つの定が在る。
空無辺処定、縦の時間のみ感じる。空間規定がデフォルトで完全になくなる。空間が出てこない。
識無辺処定、行(縦の時間)の流れを見る識別のみが存在している事を悟る。
その他、無処有処、非想非非想処、ニルヴァーナ。
以上が、八つの解脱とニルヴァーナである。
ー追記ー
テクニックはこの世に存在しない。生産だけ在る。テクニック(ヨコの関係での一瞬のいなし)が存在していると思うのは悦楽を定量だと考えているから。悦楽を規定するのは、三業を壊したから。
また、正しい生産は必ず有効性を保証される。
手に入らない苦しみというのと、手に入る苦しみ(悦楽)とは、3番目の苦しみ、日常の貪りが生産元である。
創造した生産の(喜び)と後の(楽しみ)が壊れる苦しみ(憂い)は、順番②の苦しみ。喜び(楽しみ)が生産元である。
焼かれたり、打撃を喰らう時(肉体苦がない時は生存苦)が、本質の苦しみ。順番①の苦しみであり、残った有行為が生産元である。
順番③の苦しみを捨てる事で、金持ち(金稼ぎ可)になり、順番②の苦しみを捨てる事で尊敬を得る。金や尊敬を生産に還元する事で順番①の苦しみで停止出来る。
ー追記ー
色(人体と外的事物)と名(心的作用)は密接不可分では無い、異なる系の流れである事が分かって来る。
悪いカルマの人は、仕事を楽しくやる努力(工夫)を心掛ける事でかなり変わる。
慧(正見、正思惟)の失敗。これはドグマ信仰が原因。ドグマ信仰の原因は、コンプレックスの後に起きる成功体験。諸悪の元。
止観瞑想とは、反省である。
では反省とは何か、それは止(心の展開)を、チェックする作業。
反省しまくって、自由を追求するプロセスに労働と生産がある。それは文化である。
最も地獄に落ちるのは俳優業。このような場合では、このように振る舞うべきだと人々に思わせる。どのような気持ちでやるかに対する評価と、実際にどのような影響を与えているかの評価は異なる。
人からプレゼントをもらう。ありがとうと言う。このありがとうはどこから根付き落ちたものか。限定空間はなくなる。
三学から離れない。教学で知恵を養う(慧)、仕事(事仕え)の際に否定的な感情に流れず生産を行う(定)、日常に釜(フタ)をして最大生産的にする(戒)