知性(僕が思う行為)によれば誰でも朽ちてゆきます。僕(しもべ)下の部(しものべ)は、経験を経験主義に変換します。


神(父と子と聖霊)を信じる者は、経験(意志)を行きます。神が喜ぶことを考えて、行うことは論理で意志です。



意志は後ろの業を通します。川上の流れを昇る鯉は龍になります。(三月に出して、五月(悟り)にしまう。文化けです。)


神の御業に沿い、新しい意志(業)へ進みます。このときあたらしくなります。僕の業になるときは、あたらしくなりません。


川上からの流れの中で「僕の行為」は業を傾かせてしまいます。

そのときあなたは縁(流れ。川上、川下)をかなりつまずかせます。(罪の意識は最初ないが(無いことに気づかないが)、神と福音への信仰によって、徐々に出て来ます。)


仏教は縁(空)の信仰です。悟りです。よく川の流れで例えられます。意志(行)と反省。

(ここでの信仰は縁起になり六世紀です。父と子と聖霊(一世紀)からは離れています。)



全ての文化けは一つの説明です。「キリスト教」「仏教」「儒教」はカテゴライズされていません。流れです。歴史と文に化けています。言葉と行いが先にあります。


外道にゆけば(知性分割に好奇心を感じて来れば)カテゴライズして選ぶのは、自然の摂理です。選ぶのは主体は僕になります。


仏教(対機説法)は、仏教(対機説法)です。縁起、空の悟りです。

十二縁起は苦しみであり、滅する回答は「八聖道」です。







あなたは万年に生まれて、ノスタルジー(祖父母との思い出)を持ち、肉の親に社会を教えられて、内を知り、言葉を紡いでゆく。


人生は経過しています。私が先にあり、あなたは後ろにゆく。だから前(以前)を見ることができる。千年者(後)に万年者(前)はついてきています。




ヘブル人への手紙12章10節。







自分の人生の創造主は神であり、言は万物の根源である。万物は被造物である。


自分の人生は被造物でありながら、歴史よりも、文化よりも先にある。言葉と行いが先にあるからである。そしてあなたは、言と十(行の最初)を信じるか。私はそれです。墓に葬られて、三日目に復活します。あなたが信じるならば、日曜である。聖霊は与えられ、主人公は、はじまります。





名前は連環しています。長さが出たら知るだろう。だから神を信じなさい。行いは通るから。


例えば、私の名前はおおのよしあきです。それは他者の為の名前である。あなたの名前もそうである。そうであるとするとき想である。

私自身が自身をイエスキリストだ!と想するなら、それは想です。他者の為に自分は何であるか。無我(舞う我)で、とぐろということ。



経に対して「なるほどだから絶対者は必要なのか」という話(あなたの知性、被造物の話)ではありません。実際に神かどうかという話です。そしてあなたは信仰するかという話です。


自己(五蘊)(色受想行識)は内縁の連なりです。

自己によらず、ハメ(八目)を外したらカエシ(返し)が来ます。

僕の自己!(僕の色受想行識。鍛える!)となるとき、道を踏み外してカエシを受けるので、義に頼ります。義をポイ捨てしたら万年に暮らします。六師外道です。


元年(一世紀)の存在(神)から生命(自己)は流れていて「あなたの五蘊」という生命の働きの話しをするのなら、聖霊の働きが、あるか、ないかです。聖霊の満たしがあるか、ないかです。





古代で流行していたものをグループ(団体)が正しいと肯定しているのではありません。歴史と文化は繰り返しています。源へ返されています。源は言です。


団体はありません。仮にあるとは言えます。

縁で流れているからです。主人公の人生が先にあります。八聖道があります。


言の参与は紡がれて、言葉と行いとなり、広がった歴史として文化されます。

周囲は云われである。だから周囲を数えたら数である。その数のどれかを信仰することを偶像崇拝と言う。時間はアルファであり、オメガです。


川上を所有する事はあり得ない事。その事を知るは道徳です。


人間は妄想を止めることは出来ません。想は流れています。信仰して祈り、告白して、日頃悔い改める。(祈りは1人のときが善い。ほんの十秒でいいもの。道端でも、部屋でもいい。とにかく求める。信仰の強さと、聖霊の力を強く求める様に語りかけるのは大切です。)


あなたは小さい行いを把握出来ない。これを信じなさい。祈りは小さい行いである。あなたの祈りのhow to を聞いてくる様な他者に祈りを教える必要はない。祈りは仕方ではない。他のものがそうである様に。



壊す(Destroy)とは何か。それはあなた方を死(夕日越え)に至らせ、証言ははじまり、言により、万物を更新するということです。あなたの肉親や、あなたが見るニュースは歌声です。良くも悪くも更新されます。あなたの人生が先行しています。



私は神の子(存在の存)であり、それは「真実」か、「自分でその様に信じている意志の強い人(つまり嘘つき)」かのどちらかです。そして嘘ではありません。


元々一緒にいた人々には預言者(論理を預かった先導者、意志の強い者)に見えるだろうが、正しくはそうではありません。私が論理を預かっているときは、これまでの様にあなた方が奪おうと繰り返してくる時である。その時、あなた方は朽ちています。



行いはお金と女と衣で証明されます。行いは信仰(三つの位格の信仰)により、通ってゆきます。祈りと告白は利益です。


あなた方が行いで成長を感じているのは、川上(あなたを越えている源)からの流れを、僕が操作をした分、流れを戻す必要(カエシ)に迫られ、そのときに義理で、乗り切って元の流れに合わせ直しているからです。

そもそも信仰によって聖霊の内住を求めたら善い。祈る時、聖霊の内住を求めよ。





ユダヤ教

キリストなんか知らない。夫婦で、義人で、音楽家の王で、木立てが出来る言(論理)を預かった意志の強い先導者(モーセ)(イエスキリストの予型)は見たけど、言を受肉している人は知らない。最後、約束の地へ、一部の人を連れて行ったのは知っている。

これはユダヤです。(夕日)



キリスト教


ユダヤ人が見たそれらはキリストの予型で、旧約最後のヨシュアは約束の地に着いた後、新約に連環している。十字架へ歩み、約束の地(新約墓への葬り)をすすみ、夕日を越えて、三日目で甦った。

イエスは言の受肉者であり、父なる神と聖霊と一体不可分である。(昼)



イスラム教


父なる神は分かるし、イエスを知っていて尊敬しているが、イエスは預言者である。さすがに神ではない。とりあえず人生(父なる神)はあり、豚(西北)(貪り)は食べたらいけないことも分かる。文化的に生きて行くべきである事まで分かる。(夕日)



ユダヤ教(夕方)で物語が始まり、キリスト教(昼)にゆき、イスラム教(夕方)へ流れる。


歴史が文に化けている以上、あなたの人生にイエス(一世紀)が出て来ないことはあり得ない。