「文字、歴史」は、出来事・体験・行為等の生きられた論理そのものではない。論理そのものの沈殿物である。言、言葉、文字の順。
読むことはあなた方にとって再生であり、沈殿化された文字は凍結である。
なぜ国家(西)は「沈殿物」を必要とするのか。国家の結論とは、生きられた論理を生きられなくなった集団が、代替物として必要とする装置だから。(国家は本と文字。)
国家とは、生の装置ではなく、生を管理する装置である。
なぜ生の装置(管理を委ねない論理)は必ず宗教になるのか。それは委ねない論理は、宗教にしか居場所がないからである。これは比喩ではなく、構造の必然ある。
生とは、木立てと叩き(命)。艮(北東)の存在である。東と北の間のぐちゃぐちゃ(ギャップ)がエロティシズムであり、エロティシズムは、艮にてエロヒーム(見聞)である。
艮とは、あなたの上の男とあなたの上の女から連環する、あなたの上の女と、あなたの下の子(児童にあらず)との連環である。(艮が連環しまくって字になる。万になっていることを認識する。卍は血液主義になる。)
あなたの北ではない者(南の者)をあなたが北と定めるとあなたはぼってり苦しむ。どの様に苦しむかというと、南の者を火で焼き殺したくなる。その理由は、南の者からは、その目の奥底の恐怖でしか、その人から信用を導けないからである。
あなたは東と共に、あなたの北と、南を向いて祭祀を行う。その北は、東からの贈り物である。艮の連環である。
艮とは、七の災(そこから火が流ル)であり、金神であり、それは切るである。
あなたの人生に国は登場する。クニ(小)に至る。そして遠巻きに国家を眺めることになる。
キリストの三日目、古事記の造化三神所以の三貴子(みはしらのうずのこ)は、広がる。マグダラのマリアは一番初めに目撃した弟子である。イエスの共同体。十二使徒に教える。
国生みの神(二神)は、混沌に形を成立させる。
高天原(たかまのはら)から命を受けたイザナギとイザナミは、オノゴロ島に降り立ち、天の沼矛で海をかき混ぜて国を生む。(億は嘘である。人生は必ず国であり、ヴァルナである。)
古墳とは墳。だから古事記は弥生の真上にある。日本書紀は、いとへんだ。周遊はいとへんだ。貨幣の周遊はいとへんになる。貝だから。
文字は沈殿物である。あなたはこれを見抜くか。最初に言(四)があり、言の葉は光だった。それは命であり、アダムとイヴが天空から舞い降りた。(人生の全てはアルゴリズム)世界とは空(呼びかけ)である。
言(こと)とは、
主体と世界が分かれていない
行為と意味が分かれていない
説明と実践が分かれていない
言は日を取る中(最中)である。その分節は縁への応答を閉ざすときである。開かずに閉ざすならば、海をさまようことになる。
言とは教義ではない、書物でもない。四である。それは姉、兄に肖る(流れる。)汝らは、汝らである。汝らは僕にあらず。最初の人間から誘う木である。
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弥生時代も貝殻は使われていた。
しかしそれは、生そのものではなく、
生を支える“補助物”としてである。
縄文:貝=生
弥生:貝=技術・記号・名残
なぜ稲作が進むと貝が周縁化するのか。稲作は「生命を時間に固定する技術」だから。(いとへんは、可視化されたぐるぐる。)
全て稲作である。稲作は水田稲作がになった。縄文後期に稲作は始まり、水田稲作は弥生から始まる。
二という数字は全てであり、それは三である。その連環を全てと言う。
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聖書の食事について
食事とは結節点である。労働がそれでよいと承認された形である。
口に入れる行為は生産行為(労働)であり、食事は行為として受動的である。既に何かが終わっている。口とは命である。食事とは全ての事の共有である。だから共同体の連環は労働共有関係にしか存在していない。その外縁はエロヒームの分散である。
だから切るものは、共に食事をして、裏切るものは食卓から排除される。
「私が来たのは、地に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためである。」マタイ10章34節
共同体連環にキリストは現れない事はあり得ない。キリストが教えるのは「切る」ということ。命を守るために、命でないものを切り離す行為であり、それは七である。
臆病とは、億である。自らの上と自らの間に不特定多数の億を想起させる。その下との間にも不特定多数を想起させる。命ではない微塵数を切れないことで、生命はなくなる。単一のアラビア数字に落ちる。
この世の全ては、五であり、方角である。悟りである。ヴァルナである。日月が舞う。火は吹き消す(連環して肖る)ことが出来る。
