山梨唯一のプレイバック・シアターカンパニーぶどうの樹代表のみかっちぃです。


私は○4時間テレビがあまり好きではありません。


「愛は地球を救う」なんて、素敵なタイトルなのに、差別をなくしたいと思ってる私には、ぴったりの番組のように思うのに、好きになれないのです


なんでだろう?

と考えていたら、一つの答えに行きつきました。


それは、“きれいすぎる”から。


出てくる人達が、あまりにもきれいすぎて、人間味がなく、作り物のように感じてしまうからなんだと思いました。


なんか心のきれいな人しか出てこないんですよね。

というか、心のきれいな部分だけをフォーカスしてるのかな?


演技ではないと思うのですが、障害者を腫れものでも触るかのように、まるで宝物のように、大切に扱うことに、違和感を感じているのです。


障害者はピュアな心を持っていて、まるで天使!

なんでこんな子がこんな可愛そうな想いをしているの?

なんとかしてあげなくちゃ!


みたいな。

なんか、善意の差別を感じてしまうのです


そういう人もいるけど、そうじゃない人もいるというか、いい部分だけあまりにも切り取り過ぎているような気がしてならないのです。


それに、可愛そうかどうかって他人が決めることではないと思うのです。

勝手に可愛そうな人と位置付けて支援するのって、善意の差別なのではないかと思います。


障害者であっても、嘘をつく人もいれば意地汚い人だっています。

それは、障害の有無に限らないと思うのです。

障害者であろうとなかろうと、私達と何も変わらない、普通の人間です。


でも、障害者をきれいな存在として、可愛そうな部分を強調し、感動をわざと引き出しているように感じてしまうのです。


救いたいのなら、年に一度ではなくて、日常的にしてもらいたいと思うのです。


自分いいことしてる!という気持ちを抱かせるために、障害者が使われてるように感じてしまうのです。


以前、あるコラムを読んだことがあります。

その子は外国の女の子で、なんの障害だったかは覚えていないのですが、絵を描くのが好きだそうです。

ある時、突然家に記者が来て、あなたは障害者なのに、絵が上手い!と取材しに来たそうです。

そして、自分にとっては日常的な生活の一つ一つを、「障害者なのに」という言葉をつけて、いちいち紹介されたそうです。

彼女はその時の出来事を感動ポルノだと言っていました。

記者達が勝手に、障害者は可愛そうな存在として、こんなに普通の生活を送っている!と放映したことに対して、感動を引き出すために搾取されたと言っています。


私はその時、あぁそうか、○4時間テレビは感動ポルノなんだ。

だから、私は好きになれないんだ。

と思いました。


私は、2○時間テレビに善意の差別を感じているようです。

だから、私は○4時間テレビが好きじゃない、ということみたいです。


2○時間テレビが番組として成り立たない、本当の意味での差別のない社会を作りたいです。

そのためには、障害の有無に関係なく、参加出来るプレイバック・シアターを日常に広めることが必要だと思っています。


プレイバック・シアターは、障害の有無に関係なく参加出来ます。

車イスの人も、聾唖の人も、誰であっても。

参加出来ないのは、犬とか猫とか話せない動物くらいかな(^^;;


普段の生活のすぐ隣に障害者が居る。

そんな社会を作りたいです。