隔靴搔痒 ⑤ | 明鏡 ーもうひとつの信義ー

明鏡 ーもうひとつの信義ー

韓国ドラマ『信義ーシンイー』二次小説



お父さん、いってきます

キム・メヒはいつものように玄関口で叫んだ
赤いNIKEのスニーカーが全身が黒いスーツの差し色になっていた
鞄を持つ脇には桃色の風呂敷を一枚挟んでいた

「朝ご飯くらい食べたらどうだ」
「時間がないのよ」
「お前ってやつは、いつまで経っても」
「お小言はごめんよ、私は言う方の立場の女だから」
「だから、俺がお前に言っているんだ」

ムンはそう言いながら、手にしたアルミホイルに包んだキンパを手渡した
メヒの好きな牛カルビがいつもより多く挟まれズッシリと重い

「おもーだから、好きよ」
「さっさと行きなさい。あまり遅くなるなよ」
「それは約束できないわ。今日は取調べがあるの」

手に渡されたアルミホールを少し捲り中のキンパを一口頬張った
噛みやすく切られたカルビとニンジンともやしナムル、薄焼き卵が噛むごとに口の中に広がる

「分かった、迎えに行く」
「お願い」

メヒはいつもようにムンの頬に自らの頬を寄せた
髭がチクチクと当たるのが、心の何処かで「生きている」と実感できホッとするのが不思議だった
扉を開けて両手で門を開け、バス停までの100メートルを全速力で走る
通りで掃除をしていた近所のアジュマが振り返り
「ちょいともう転けちまうよ。気をつけなー検事さん」
「おはようございます。まだ転ける歳じゃないないわ」
「よく言うよ。私はアンタが毎朝走る姿を見ないとさ、元気が出ないからね」
「じゃ、やっぱり毎朝走らないとね」
メヒは片手をあげてヒラヒラと振った
その先に一台のバスが近づいてくるのが見える
「マズいわ。本当に乗り遅れる」
握っていたキンパを鞄に放り込み全速力で駆け抜けた
正しい事がしたい、いつの頃からかそう思っていた
世の中は理不尽で罪なき者を噂だけで陥れたりもする

「泣かせない、絶対天罰を受けさせるのよ」

言霊というものがあるという
その一言を口に出し呟くだけで心が定まる
弱い自分に負けたりはしない、強くなる
メヒは、バスのドアが閉まる寸前に飛び乗った

「間に合った」

満員のバスの中で体を支えられる場所を探し、後へと歩いた
揺れるバスは途中にある高校と大学で乗っている大半が降りてしまう
その頃にやっと空いている席に腰を下ろした
「あーやっと座れる」
キリッと描いた眉は、意志を強そうに見せてた
反対に切長のアーモンドアイにはやわらかなオレンジ色でぼかし、何を考えているのか不可思議な雰囲気を作っていた
口紅はあえて塗っていない、被疑者に威圧感を出さない配慮だった

「今日は、ジュノと一緒だったわね」

鞄からムンに渡されたキンパを取り出し一口頬張った
「美味しい、今日も頑張らないと」
メヒは、バスの中で渡されたキンパの半分を食べ終え、残りを両手でしっかり包み直し、又鞄に入れた

「残りはジュノの分よ」

バスは定刻の時間にソウル中央地方検察庁の前に着いた
バスを降り建物の階段を一段飛ばしで駆け上がると
「キムさん、今日も元気ですね」
ドアの前に立っている警備員が微笑みながら声をかけてくる
「そりゃ、そうよ。ヨボのキンパ食べたもの」
「この間頂いたやつですか」
「そう、美味しいでしょ?」
扉を抜けるたった一瞬でさえもメヒは会話を大切にしていた
この他愛もない会話に耳を傾ける事が自分の仕事の一環となると思っている
エレベーターの前に立ち「上がる」のボタンを押した
メヒの後には続々と人が集まり思い思いの会話をしていた
「お昼何にする?」「今日の公判は」「ハン検察長が」
聞いていないふりをしつつ聞き漏らさない

「おはようございます、キム検事長」
「おはようジュノ」
「やめてくださいよ、私はイ・ジンと言う名があります」
「あら麻薬捜査で被疑者をボコボコにして飛ばれて来たから名前がジュノ(青二才)かと思ったわ」
「飛ばれたのではなく、昇進してキム検事長の部下になったんです」
「私は、貴方がきてから朝ご飯が喉を通らないわ」

メヒは鞄からキンパを包んだアルミホイルを出し、イ・ジンに手渡した
「旦那さんが作ったキンパですか!」
「そうよ、この美味しいキンパが半分しか胃におさまらない」
イ・ジンは手渡されたキンパをエレベーターがくる間に一口頬張った
「うっまぁー」
「ほら、そんな部下だから。皆んなあなたを注目するのよ」
エレベーターを待っていた大半の職員がイ・ジンの姿を冷笑を浮かべ見つめていた





「やってしまいました」
「残りは部屋で食べなさいよ」

黒く長い髪を纏めあげ、赤い月の形をした髪留めをしていた
初めて会った時、女性で初めて検事長になった女性だと聞いて
どんな女傑かと思ったが、とても美しいクールビューティーな人だった

「飛ばれたんだって」

まるで親しい友人に話すように聞いてきた
白く細い手を俺の方にスッと出して

「今日から貴方の上司になるキム・メヒよ」

俺は頭を下げながら自らの右手を出し、その手を掴み握手をした
握った掌には、その容姿に不釣り合いなマメがあった

「貴方、今日からジュノ。ジュノよいいわね」

呆気に取られた俺の前には、キム・メヒと言う不敵に微笑む美しきマダムが立っていたのだ