男の唇 ④ | 明鏡 ーもうひとつの信義ー

明鏡 ーもうひとつの信義ー

韓国ドラマ『信義ーシンイー』二次小説



人生を揺るがすような出会いを其方達はした事があるか
私はあると断言できる程大きな衝撃であった

一つ目はあの方との出逢い

初めて何の策略もなく傍にいて欲しいと思った女であった
薄絹一枚隔てたぼんやりとした面影であった
しかし、私を思う優しさが翳りもなく伝わる

「私と婚姻してくださいますか、見知らぬ女とはできない」

私は心の渇望のままに伝えた
喜んでくれると思っていたが
その目は激しく揺れていた

ー私は一つ目の罪を犯したー

二つ目は、私を我が国へと導く為に来た男

真っ黒な外套に身を包み私の前に傅いた
僅かに見えた顔
私に仕える近衛隊長と聞いていた

ー女かー

否、女にしては身丈が大きすぎる

「チェ・ヨンにございます」

その者の声は、何とも心地良い雑味のない抑揚
やはり男か
私の心の奥底まで見透かす眼差し

ー怖いー

嘘などつけない
臣下として常に傍に居て欲しい
きっと私を護ってくれるであろう

ーこの思いが私を二度目の罪を犯す事になったー

イルシンに唆された訳ではない
あのチェヨンが連れてきた(選んだ)天医は女であった
きっと目を離すことの出来ない瞬間があったのだ
私とあの方との出逢いと同じく

「返してはならない」

いつかお前は私に感謝し、一生お仕えするともう一度頭を垂れる
私は傲慢にも思い込んでいた

泣き叫ぶ医仙の手をチェヨンは、掴み離さなかった
二人の溝は深い
私はこの様な事をするつもりではなかった

誰も私を王とは思ってはいない
真夜中寝室を一人で出た
「王様何方へ」
一人になりたくも誰もそうしてはくれないのだ
「離れなさい」
どうしても一人にしてくれとは言えなかった
まだ自尊心がゆえに弱さを知られたくない

「王には、王の都合がお有りになる」

副隊長の背後からチェヨンの声がした
お前は、己の体を休めているのか

「誰も付いてきてはならぬ」

薄い夜着の上に羽織った赤い上衣
この国の王ならば身につけるべきものだ
しかし、今の私にはその様な勇気もない

「誰もおらぬ夜中にしか着れぬ哀れな者だ」

辿り着いた先は、昼間多くの臣下と顔を合わせた謁見の間
玉座は一段、二段と高い
私は一歩づつあゆみ近づいた

「なぜ私だったのか」

誰もいない広間に私の声が反響した
返ってきた自分の声に私は慌てた

ー誰かに聞かれてしまったらー

そんな事を思う情けない男だ
口惜しさと惨めさに脣がふるえる
たった一歩もあゆみが出来ず、玉座の前で膝をついた
身体はがくがくとふるえ、出そうと思わずとも嗚咽がでた

「そのようなつもりではなかった」

両手を床についた
めいっぱい開いた手で何度も玉座の前を叩いた
脆弱で渇いた音が響く
このような事もでさえも私には出来ないのか
爪の跡が手の平に付くであろう力で握りしめ
私は振り上げ床にぶつけようとした
手が砕けてしまっても構わない

「無駄な事に力を使ってはなりませぬ」

振り上げた腕はチェヨンに掴まれていた
その力は痺れるほど強い

「某は、思うのです」

掴んだ腕をゆっくりと離しつつ
私の視野に入らず

「王様、あなたは無鉄砲なんですよ」

不敬罪に問われる一言であろう
だが、今は言わねばならない

「誰しも葛藤の中で生きています」

弱さを知りはじめて強くなれるものだと
震える王の背中に私は初めて手を添えた
儚く消えちまいそうな頼りないその背を
俺は守らねばならぬ

「お願いします、王様」

声を出して泣く王に俺は願った

「そのお気持ちを永遠にお持ちください」

澱むことなく、弱き者の心のふるえを知る王に



あれから何年経った
国はその間も何度も傾き
そして私は自らの弱さを隠さなかった
弱き者でも爪を立てる勇気はあるのだと知らしめる為に

「アジョシ・・・だれ?」

王宮の庭先で私を呼び止める幼な子の声

「私か?此処で私を知らぬ者がいるのだな」

体には不釣り合いな大きな編笠に薄桃色をした絹の衣
もしかしてこの娘は

「ひとりか?」
「いぇー」
「何をしている」
「ルビね、猫を書いてた」

やはりチェヨンの娘か、医仙に似て面白き事を言う
編笠からちらりと見えた脣は紅を引いたように赤く
絹のように肌は白い、頬は咲きはじめの薔薇(そうび)
いずれかさぞ美しい女になるであろう

「見たい?アジョシ、ルビの猫」
「あ、アジョシも絵を描く、其方の猫を見てみたい」

ルビは小さな手を天に向けた
渇いた風が一瞬で湿った風に変わり
人差し指でくるりと弧を描く
風は小雨を呼んだ
雨は天から降るのではなく
天へ上がっていくように見えた

「猫さん出てこい」





ルビの指先から赤い稲光走り大きな虎が天に向かって翔んだ
まさか・・・
見てはならぬものを見た