立川と日野を結ぶ橋。
日野の渡しは、現在の立日橋付近で柴崎(立川市)と日野を結んでいた多摩川の渡しで、
江戸時代貞享年間(1684~1688)以前は農耕のための作場渡しとして利用されていた。
この頃、甲州街道は下流の青柳(国立市)付近から万願寺渡船場から多摩川を渡り、
万願寺一里塚を経て日野宿に至っていた。貞享元年、甲州街道は青柳より上流の柴崎から
日野渡船場で多摩川を渡り、日野宿に至る道筋に改変された。
これに伴い、日野の渡しは府中宿と日野宿を結ぶ正式な渡しとなり、日野宿の経営となった。
三月から十月までは渡船、渇水期の十月から翌三月までは土橋だったが、文政七年(1824)以降は
一年中渡船となった。
渡し賃は人と馬で別々に徴収されたが、武士、僧侶、宿の人々は無料で通行でした。
明治維新後も日野渡船場の経営は日野町へ受け継がれるが、大正十五年(1926)日野橋の開通によって
渡船は廃止となった。
日野市教育委員会
朝イチで美容室へ行き、その後原付で日野駅まで行った。
二巡目のパレードも終わり、佐藤彦五郎新選組資料館前にて。
このまま行進して資料館敷地内へ入り、福子館長へご挨拶されていました。
バグパイプで福子さんへ「アメイジング・グレイス」をプレゼント![]()
西洋流火術鉄砲隊の皆さんの心のこもった粋な計らいに、
福子さんは涙ぐんでいらっしゃいました。
偶然この場に居合わせた私も感動で鳥肌が立ちました
まつりの最後に素敵な時間を過ごさせていただきました。
今日は早朝から青梅市の「塩船観音寺」へつつじを見に行ってきました![]()
塩船観音寺は、山号を 大悲山 と称し、寺は地名の塩船を付けて『大悲山塩船観音寺』と申しております。
塩船とは、周囲の地形が小丘に囲まれ舟の形に似ており、仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名づけられたのであります。
大化年間(西暦645~650年)に若狭国の八百比丘尼が一寸八分の紫金の観音像を
当地に安置したのが開山と伝えられ、貞観年間(859~877年)には安然和尚が
十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられております。
当寺の御本尊は十一面千手観世音の木彫立像で像身四尺六寸(1.4m)鎌倉時代(文永元年西暦1264年)の作にして宋朝様式の影響を多分に受けております。
「青梅大祭の歴史」
青梅宿「青梅村」に位置する住吉神社は住吉山延命寺の鎮守として応安2年6月に創建され、その後、永正10年3月28日(1513年・室町時代)青梅村の鎮守の神様となりました。
村民が拝殿等の改修工事を施工し、その完成を祝い五町の氏子村民多数が祭り事を計画し実行しました。
これが、春季例大祭の始まりと言われ、現在の山車巡行祭礼となりました。
住吉神社の氏子である五町(現在山車人形を所有する住江町・本町・仲町・上町・森下町)で山車を曳いたのが青梅大祭の始まりです。
戦後になり、滝ノ上町・大柳町・天ヶ瀬町・裏宿町そして西分町・勝沼町・日向和田も加わり現在の12台の巡行となっています。
この青梅大祭は例年10万人を超える来場者がある大規模なお祭りになります。
しばし、動画をお楽しみ下さい。
山車に乗ったお囃子さんが激しい祭りって珍しいよ!w
山車人形は江戸末期に青梅の産業であった青梅縞などで活況を呈していた
商人達が買い求めていたと言われています。
山車人形は江戸の人形師達ちが腕を振るった傑作揃いで、明治の終わりまでは
山車の上に高く飾られて巡行し、豪華絢爛を謳われたものです。
その後、電線が張られるようになると山車は現在の屋台方の形での巡行になり、
山車人形は町内に飾られるようになりました。
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明治の終わりまではこの様に山車の上に高く飾られていたんですね〜
朝の内はね〜のんびり歩けたのに、増える増える人・人・人・・・・
週末の原宿の竹下通りみたいに、前後左右に人が居て行きたい方に歩いて行けない位だったわぁ
こんな調子で夜までま体が持たないっしょ![]()
暑くなってきたし歩き疲れたので、さくと涼しい木陰のある住吉神社へお詣りに。
みんな山車や的屋目当てだから神社が空いてた![]()
参道石段の上からは青梅の山々が見えます^^
桜、ここ涼しいなぁ〜^^
再び人ごみの中に突入![]()
本当は夜の部まで居るつもりでいたんだけど、想像していたよか凄い人なので歩くのに疲れ果てて、
この後、山の上にある公園の木陰にシートを敷いてさくと昼寝してから帰宅しましたwwww
足が筋肉痛><
夜、韓流ドラマを見過ぎて寝付けないままww
中島登(1838~1887)
寺方村(現西寺方町)の千人同心の子として生まれ、自身も千人同心となるが、
同心仲間とのトラブルから千人同心をやめ離村、親戚筋にあたる多摩郡中野村の井上益五郎宅へ身を寄せた。この井上益五郎が近藤勇の近藤家と知り合いであったことから、登は新選組に入隊した。
土方歳三と各地を転戦するが、箱館五稜郭の戦いで捕えられ、その後は遠州白須賀(現静岡県湖西市)へ開拓農民として入植、後に浜松にて鉄砲火薬店を開いた。
中島が新選組隊士を描いた「戦友姿絵」は、箱館五稜郭分館に収められている。
(八王子市教育委員会案内板より)

帰宅後は爆睡しましたww
週末はさくと原付で八王子へ![]()













昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋です。
南浅川に架り、多摩御陵(武蔵陵墓地)への参道となっています。
御陵参道の橋であるため、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮した
デザインが施されているのが特徴です。

「多摩御陵(武蔵陵墓地)のケヤキ並木」
多摩御陵・武蔵陵墓地への外参道沿いには、高さが20メートルほどのケヤキが約160本植えられていてます。
南浅川橋から見通すことができるこのケヤキ並木は、四季折々に美しいアーチを描きます。


















































































































































