恵林寺 | 桜のブログ

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「恵林寺」

恵林寺は、戦国最強の騎馬軍団を率い「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄の菩提寺です。

 

「武田晴信入道信玄」
応仁の乱以降の戦国時代の舞台に登場する武将英傑は少なくない。

ひとたび風雲に乗ずると天下を取る実力第一の時代であった。

かかる時に霊峰富士を仰ぎ見る山紫水明の地、甲州を拠点に大永元年3月石水寺城に生まれた

武田晴信入道信玄は清和源氏新羅三郎義光の流れをくむものである。

 

信玄の変転きわまる乱世史上53年の生涯は稀代の軍略家、精妙な外交家、

包容力にとむ民政経世家のそれであり、強大な統率力はこれ富士の威容にも比すべきものがある。


6才のころから関山派長谷寺禅僧岐秀に学問を習い、岐秀が北畠親房の庭訓往来を示すと信玄は

3日を以って読破暗記した。

好んで六韜三略・孫子・呉子の兵法を学び、天性豪胆利発であった。

 

天文5年3月、16歳で元服した。後年信玄が師と仰いだのは恵林禅寺の快川国師で、

勝頼が天目山に敗れて武田家亡ぶや、信長は佐々木承禎のことで大いに怒り、

天正10年兵を恵林寺に攻め、快川一山の僧徒を山門に追って火を放ち、猛炎その袖に移るや、

有名な「心頭を滅却すれば火自ら涼し」と従容として喝を唱え焚死して武田に殉じ大往生。

万丈の大気焔を吐いた。

信玄の信濃への出陣は信濃守に任ぜられた責任上その守護職の務であるため、

上杉謙信と川中島に五回のの大戦を行い信濃全土を掌中に収め、上野、飛騨、越中を牽制し、

三河、遠江に入る要路を開き、北條、今川を堅め、近江の浅井、越前の朝倉及び本願寺と結び、

将軍義昭に取り入り信長の侵略に備えた。

 

元亀3年10月、2万8千の大軍を率いて遠江に入り徳川の城を次々に攻略し、

12月23日、三方ヶ原に進軍、徳川、織田連合軍を打ち破り、天正元年三河の野田城を陥れて

大いに兵威が振るった。

剣禅一如の妙諦を悟得することのできた信玄が「疾如風・徐如林・侵如火・不動如山」の

大旗をかかげ、阿修羅・不動尊王の如く四隣を斬り靡かせ威風堂々天下平定の大望成らんとする時、

 

天正元年2月、やや不例気味の信玄は野田城開城前に一夜笛の音に誘われて堀端に近寄った時に

城中より狙撃を受けて負傷したと云う。

これにより病状悪化し全軍帰国命令を発した。

その途中、信州駒場で悲憤の涙を呑んで薨じた。

信玄は信を内に置き常に国外に進出した。

「人は城、人は石垣、人は掘、なさけは見方、あだは敵なり」の国風を詠じて防備強国を

進言した者に答えたと云う。
                                   贈位 従三位
                                  (説明文より)

 

乾徳山(けんとくさん)恵林禅寺の沿革

恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹である。 

元徳2年(1330)に、甲斐牧ノ庄の地頭職(領主)をつとめていた二階堂出羽守貞藤

(道号は道蘊 どううん)が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建しました。

 

武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、

永禄7年(1564)には、信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めました。

 

天正4年(1576)4月、遺言通り三年間の秘喪の後、武田勝頼は快川国師の導師のもと、

父信玄の盛大な葬儀を厳修しました。 しかし天正10年(1582)3月、勝頼は時運を味方に

つけることができず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡しました。

 

同4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに

火に包まれました。

 

同6月3日、「本能寺の変」によって信長が斃れて後、徳川家康の手により復興され、

また徳川五代将軍綱吉の時代に甲斐国主となった柳沢美濃守吉保の庇護で寺運は発展、

柳沢吉保嫡男の吉里の代に柳沢家は奈良大和郡山に転封となるも、吉保夫妻は恵林寺を菩提寺

として霊廟をもうけました。

 

庭園は鎌倉時代、夢窓国師の作庭で、国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に

詠まれています。                            (恵林寺HP参照)

 

 

長い長い参道が見えます。

 

「四脚門(赤門)」

恵林寺の南の入口に建つ総門(通称:黒門)から入って、参道を進むと見えてくるのが四脚門

(通称:赤門)。

徳川家康の再建と伝えられるもので、国の重要文化財。

恵林寺の山号である「乾徳山」の額を門の上に堂々と掲げている。

 

「開山堂(右)」

三門をくぐって正面に見えるのが甲州市指定文化財の開山堂である。

夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の

三像が堂内に安置されている

 

「庫裡」

禅寺のなかでもめずらしい、日本有数の大庫裡。

信長による焼き討ちの後、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、

明治38年の火災によってそのほとんどを焼失

現在の本堂、庫裏も、明治末期に再建されたものである。

戦中には東京の学童疎開の場となり小学生約150人が寄宿生活を送った場所である。

 

「武田信虎公の供養塔」

武田信虎公は甲斐守護信縄公ノ嫡男ニシテ当山中興開基大檀越信玄公ノ御父ナリ永正4年家ヲ嗣グヤ国乱ヲ戦定シ甲府ヲ開創シ嫡男信玄ノ大経綸ノ緒ヲ開キシ名将ナリ駿河退隠ノ後モ京畿ニ遊説シテ今嫡ノ為ニ策セルモ天正2年3月5日信州高遠城ニ病没セラル享年81同4年4月16日令孫勝頼公先考信玄ノ葬禮ヲ當山ニ執行スルヤ併セテ祖父信虎公追福ノ塔ヲ造立セラル此地モト信縄公開基ノ當山塔頭長興院址ナリ然ルニ壬午4月3日織田ノ兵焚ニ一山焼亡シ両公ノ塔亦被火セリ越テ寛文12年信玄公百年諱ニ荊山大和尚信玄公ノ塔ヲ再建セルモ信虎公塔ニハ至ラザリキ今茲信玄公生誕450年ノ機ヲトシ
當山古記録ニ基キ茲ニ此塔ヲ再建スト六爾
(石碑記載文章より)

 

信玄公の墓前は 毎月12日に公開の為、

この日は墓前参りは出来ず><

 

今度は12日を狙って伺います

 

もう帰ろうとした所へ 何処からともなくやって来た「真っ白なニャン子o(・ω・)o

「よくお参り下さいました^^」とでも言いたげな感じで・・・

二人でしゃがみ込むと ゴロンと仰向けになり お腹を撫でてぇ~状態w

 

たいていの猫はお腹触ると 猫キックしてくるんだけど

この子、随分と気持ちよさそうに ゴロゴロ・・・ゴロゴロ・・・・のんびりup

 

可愛かったぁ~~LOVE

 

甲府らしい風景をお届けブドウぶどうぶどうシャルドネ

 

まだ つづく・・・・