本日5月29日は、中野区にある貞源寺にて
伊庭八郎さんの「朝涼忌」でございました。
昨年もお邪魔しましたが、一年間首を長くして待っておりました。
いつも一緒にお出かけしてれる姉さんと一緒に参列させていただきました。
歴代の墓所に向かって右から2番目の墓石に、
実母まきと共に八郎さんの戒名「秀穎院清誉是一居士」が刻まれております。
供花で全体が見えませんが・・・
秀業次男 秀俊養子 俗称 伊庭八郎
秀穎院清誉是一居士 明治二年己巳 五月十二日
伊庭八郎は「秀業の長男」ですが、実父である「秀業」が隠居。
当時まだ幼い八郎は家を継ぐ事は無理で、秀業は大勢の門人の中から
旗本・蒔田左衛門の家来であった「塀和惣太郎」を養子にし伊庭家を相続させている。
秀業の跡を受け「九代目」を継いだ「塀和惣太郎」は「秀俊」と名乗る。
上記のことから、「秀俊(後の養父)」が長男となり、八郎は「次男」となったわけです。
※秀業=実父
※秀俊=(秀業の養子➡後の八郎の養父)
伊庭家の家紋「糸輪に枷木紋(かせ木紋)」
「競勢酔虎伝」 「伊庭七郎」の錦絵
幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師「月岡芳年(よしとし)」によるもの。
明治の頃作られたそうで、伊庭八郎の名にしてしまうと、
この時代では賊軍であったために名前を「伊庭七郎」とし、
切られた腕も左ではなく右に描かれたのだとか。
本当に素晴らしい^^
色がとても綺麗でした。
こちらは「名誉新談」 「伊庭八郎」
- 絵師:芳年 Yoshitoshi
- 作品:名誉新談 伊庭八郎
技法:木版 - 制作年:明治期
・・・↓これに当てはまるのでしょうか?!
錦絵新聞(にしきえしんぶん)とは、日本の明治初期の数年間に発行されていた
視覚的ニュース・メディア]で、一つの新聞記事を浮世絵の一種である錦絵一枚で絵説きしたもの。
グラフィックとしての錦絵に着目して新聞錦絵と呼ばれることもある。
錦絵新聞は、浮世絵の特色のうち「報道的な性格」を強く持っていた。
ほとんどが明治7年(1874年)から明治14年(1881年)にかけてのごく短期間に発行され、
やがて小新聞に押されて姿を消していった。
(ウィキより)
「競勢酔虎伝」から飛び出してきた伊庭七郎
彫刻家である金子誠さんの作品。
昨年の朝涼忌では拝見できなかったので今回お初にお目にかかりました。
もうね、生きているようですよ! 本当に素晴らしい((๑→ܫ←๑))
指の爪まで本物の人間のようです。
指先も気になるポイントでしたが、私的には腿の裏も含めた右足に釘付けでした。
絵を見て こんな作品が作れるものなのか
鼻血がでそうでした!!!▄█▀█●❤
演武終了後は親睦会へ参加させていただきました^^
昨年もとても美味しくお腹いっぱいにいただきましたが、
今年も豪華な料理が並んでいましたヾ(◕ˇoˇ◕ℒ)`*:;,。・
遠慮せずにバクバク御馳走になりました(〃艸〃)ムフッ
全部のお料理を撮れなかった><
残念><
とて名残惜しかったですが貞源寺を後にします。
風心会の皆さん、伊庭八郎の会の皆さん、ご関係者の方々がお見送りに来て下さいました。
最後の最後まで 心のこもった「おもてなし」に感謝致します。
昨年も親睦会に参加させていただきましたが、とても居心地の良い暖かい会であります。
ご関係者の皆様が常に参列した方々に気を配っていらっしゃる姿に頭が下がります。
又、今年の会報の一部ですが、お力になれました事、嬉しく思います。
本日今年の法要が終わったばかりですが、すでに来年が待ち遠しい桜で御座いますw
ご関係者の皆様、 お疲れさまでした。
そして 有難う御座いました((๑→ܫ←๑))
また来年^^
伊庭家家紋のコースターと、伊庭八郎チロルチョコのお土産を頂きました^^
※誤字・脱字・誤りなどありましたら スミマセン><